投稿者: えのきりょう

  • 2026.08.30 自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい

    ◆第一朗読 エレミヤの預言 エレミヤ20.7-9

    ◆第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ12.1-2

    ◆第三朗読 マタイによる福音 マタイ16.21-27

    ◆ジョニー神父様のお説教

     今日も皆様はどんなメッセージをもって帰られるでしょうか。第一朗読ではエレミヤの預言が読まれました。「聖書と典礼」の下の段には解説が書いてあり、解説を読むと理解しやすいでしょう。エレミヤは、神の言葉を告げたために迫害を受けたと書かれています。迫害は誰から受けたのでしょうか。エレミヤは、自分が派遣された先の人々から迫害を受けたのです。エレミヤは神の名によって話すことがもうこれ以上できないと思って、もう語るのをやめようとします。しかし神の名によってかたろうとする骨の髄からの願いはどうしても抑えることができなくて宣教を続けたのです。

     皆さまは、この話を皆様は昔話として聞いているかもしれません。しかし、これは昔話として聞くのではなくて、あることを教えようとしているということに注意していただきたいです。つまり、昔話ではなく、今の現代の私たちの時代においても同じことが起きているということです。今の時代において「預言者」という役割を担っているのは、教皇様、司教様たち、司祭たちです。そればかりでなく、教会の仕事に携わっている人々や、教会に来てミサに奉仕する人々、共同体の一員も預言者の役割を担っている人と言えるでしょう。エレミヤは自分が派遣された人たちのほうから迫害されましたが、私たちの教会でも教会のために奉仕している人を悪く言ったり批判ばかりしていることはないでしょうか。もしも悪口をいうなら、私たちが彼らを迫害していると言えます。教会の評議員の任期は2年で、新しい人に交代することになっていますが、毎回困ったことに信徒代表を引き受けてくれる人がいません。お願いしても、健康上の理由で断られたり、嘘をついてまで辞退する人がいます。なぜ彼らは噓をついてまでその役割を引き受けたくないのでしょうか。理由はその役割を引き受けたら皆様から悪口を言われるから、批判ばかりされるからでしょう。そんなふうに迫害されたくないのでみんな逃げてしまうのです。私たちは回心する必要があります。

     第二朗読では二つのアドバイスが書かれています。まず一つ目、「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。」二つ目は、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」つまり、信者である私たちは信者として、信者らしく生きるようにと言われています。世俗的な考えを捨てて、自分自身を清くして、神様に喜ばれる人生を生きるように招かれています。神様は私たちに「あなた方は世の光」と言われました。私たちがそのことをあかしする生き方ができますように。

     福音朗読では、イエスがご自分が苦しみを受けて殺されることになると打ち消られたのに対して、ペテロが納得しないという場面です。人間は苦しいことをなかなか納得することが難しいですし、納得したくないと思うのが普通です。ペテロもイエスの苦しみを納得したくないのです。それを理解するためには、先週の福音にヒントがあります。イエスから「私は何者か」と尋ねられたペテロが、「あなたはメシア。生きる神です。」と答えています。ペテロにとってイエスは自分の国をローマの支配から救ってくれる強い力ある神と思っていたことでしょう。ペテロは人間のやり方で神を理解しようとしていました。

     十字架は神さまの人間の救いへの計画です。信者になるのが大事ではない。信者になってイエスの弟子になること、十字架を背負うということが大事なのです。十字架を背負うということは、私たちが引き受けるべき犠牲や困難を自分が背負うということです。具体的な例でいうと、許したくないにもかかわらず人を許すこと、自分の利益よりも人のために物事をおこなうこと、周りの人に理解されなくても神様のために犠牲を払うこと。ある人にとっては今日の国際ミサも十字架となりうるかもしれません。皆さまも日本という国を出て、よその国へ出てみれば外国で暮らすことの困難を理解されるでしょう。日本語は難しいので日本語のミサに与ることが難しい場合もあります。また反対に国際ミサでは3か国語で進行するので時間がかかります。そのことを我慢しにくい人にとっては、この国際ミサに与ることが十字架となるかもしれません。今日頑張って引き受けるといい十字架はこのミサかもしれません。

    ◆トピックス

     今日はミサの中で侍者をしていた男子中学生が祭壇前に招かれ、フロアにいたスマイルちゃん(小学生)といっしょに8月生まれの代表としてハッピーバースデイを神父様から歌ってもらい、祝福を受けました。歌は日本語、英語、フランス語、リンガラ語と何と4か国語で歌われ、神父様の子どもたちへのやさしさと熱い思いが感じられました。

     今日は第五日曜日なので、国際ミサとなり、聖書朗読はベトナム語、英語、説教もベトナム語、英語で読まれました。

  • 2026.08.16 「主よ、どうかお助けください」

    ◆第一朗読 イザヤの預言 イザヤ56.1,6-7

    ◆第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙

    ◆第三朗読 マタイによる福音 マタイ15.21-28

    ◆ギャリー神父様のお説教

     日本では今はお盆です。お盆には終戦の時期ですから戦争で亡くなられた方々を偲んで、親戚が集まって過ごします。日本に長くいるとお盆に家族が集まって先祖や死者たちのために祈りをささげるこの習慣にだいぶん慣れてきました。震災後、東北地方に滞在し活動していましたが、東北では家族が集まると灯をともし、その火を囲んで家族が一緒に過ごして家族のきずなを確かめたり死者を偲んで祈りをささげたりしていて特にお盆の習慣が強く残っている印象があります。

     今日の福音ではイエスが自分のおられた場所から80キロメートルも離れたシドンの地に行かれたことが書かれている。伝統的なイスラエルの考え方では、そこの人々は異邦人、カナン人と呼ばれていてイエスが自分の外つまり別のところに追いやられたことが示されています。

     先週のミサの中で読まれた福音書によると、イエスは海でおぼれそうになるペトロに対して、信仰の薄いものよと言い波をしずめられました。その前の福音書では、預言者が異教徒や指導者たちに嫌われて追いやられ、預言者を励まし信仰を強めた場面が描かれていました。今日の福音書ではカナンの女はイエスに、「主よ、メシヤよ」と叫び、「主よ、どうかお助けください」とイエスを絶対的に信じ、イエスに願い求めることで結果的にむすめを癒しました。

     イエスが、子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけないと言われたことは、自分の願いを拒否されたかのようにみえるかもしれませんが、カナンの女は「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」と答え、イエスが必ず何とかしてくださると信じて疑わないのでした。カナンの女は救いの計画は神がお決めになることであり、自分が一番ではないことをわきまえ、イスラエルの優先性を認めながらも、神のめぐみは無限にあふれ出るとつよく信じていたのでした。この信仰が篤いカナンの女のことをイエスは感心されました。イエスが信仰があついことで人を褒めたのは、カナンの女と百人隊長です。私たちは、ミサの中でご聖体をいただく前に「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしいものではありません。お言葉をいただくだけで救われます」と唱えます。ある意見によると、その部分がミサの流れを遮るようだと思う方がいらっしゃるようですが、その言葉は強い信仰を表す言葉なので実にその場にふさわしいお祈りだといえると思います。

     「主よ、助けてください」という言葉は、短いですが強い信仰を表す言葉です。私たちは自分の信仰がもっと大きくなるように願ってこの短い祈りをささげます。お盆は広くつながる家族のつながりを感じて、確かめる時期です。そのつながりのように、私たちは神様によって一つの信仰に結ばれている家族なのですが、神様の家はもっともっと大きくて広いです。カナンの女が示した信仰の強さに倣って、私たちの信仰も強くなるように、自分が優先だという思いではなく神様の救いの計画は神様がお決めになることであり、その神様のめぐみは無限で広いということを理解しましょう。神様のはたらきが私たちに及んで、私たちが自分たちの生活の中でよい働きができますように祈りましょう。

    ◆トピックス

     今日初めて姫路教会を訪問してくださった方として、二十人ほどのフィリピン人の若者が紹介されました。普段は他市で働いておられるということでした。同郷のギャリー神父様とお会いになれ良かったです。

  • 2026.08.09「 主よ、助けてください」

    ◆第一朗読 列王記上19.9,11-13

    ◆第二朗読使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ9.1-5

    ◆第三朗読 マタイによる福音 マタイ14.22-33

    ◆ジョニー神父様のお説教

     今日の言葉、「主よ、助けてください」は短いですが、ペトロによるれっきとした祈りです。ペトロが神様を信頼して、心の底から出た真実の叫びだからです。

     皆様に質問があります。声に出して答えなくて結構です。ご自分の胸の中だけで考えて答えてください。「神様に会いたい。神さま、自分はもう苦しいから死んでしまいたいです。」と思ったことがある人はいますか?

     それと同じことを思った人がいます。第一朗読で出てきたエリヤです。エリヤという人物の名前は絶対に覚えておいていただきたいです。旧約の時代の偉大な預言者です。エリヤのほかには、エリシャがいます。エリヤは何度も奇跡を行い、イエスと同じような奇跡をいくつも行いました。死者をよみがえらせたこともありました。このエリヤにはイスラセルの人々に唯一の神への信仰を取り戻させるという神様から与えられたミッションがありました。この当時、異教の神を信仰している人々がいて、その人々が預言者を殺してしまうこともありました。エリヤも自分の身に危険を感じて、怖くなって、自分の死さえも願うようになったのです。神はエリヤをホレブ(シナイ山)に導き、そこでエリヤに現れ、励まし、新たなミッションを与えました。

     このエリヤの気持ちは司祭の気持ちとかさなります。司祭の中には、どうして司祭になったのか、どうして日本を離れて故郷に帰らないのか疑問に感じて答えが見えなくなっている人もいる。それだけ司祭職を続ける道では厳しいことがある。実際にジョニー神父の同期でも途中で司祭職をあきらめた人もいる。ここ姫路教会でも評議会に出ていると、いろいろなことがわかる。信徒の代表を引き受ける人がいない。頑張って代表を受けたとしても批判ばかり受けて厳しいことが多い。司祭職の感じる厳しさと通じるところを感じるので、私は評議員には感謝しかない。仮に間違いがあったとしても感謝の気持ちがまず一番にある。信徒の皆さんにも評議員や代表者には、感謝し、励ましてほしいです。司祭のためにも祈ってください。司祭は厳しいことに耐えて頑張っているのです。皆さまが批判ばかりしていると司祭や仕事ををしてくれている評議員の方に逃げられてしまいます。感謝して、励まして、司祭職や評議員のために祈る必要があります。

     第二朗読は同胞のために祈るパウロのことが描かれています。パウロはキリストによる救いを受け入れなかった多くのユダヤ人のことを思い、心を痛めています。ジョニー神父のところにも時にこれと同じような話がときに信徒から寄せられます。自分の子どもや孫が教会に行かないので悲しい、つらい、どうしたらいいのかというものです。パウロもこの父母や祖父母と同じように同胞のために心を痛めます。父母や祖父母と同じように、あきらめたくもなるけど、あきらめられない。何とか救いたい、導きたいのです。同じ状況が他にもあります。聖モニカという聖人は、ヒッポの司教アウグスティヌスの母親であり、アウグスティヌスのためにずっと祈り続けた聖女です。イタリアのミラノにいくと、このアウグスティヌスが洗礼を受けたといわれる教会を見ることができます。

     福音書では海に浮かぶ船の上で逆風に悩まされる人々を助けるためにイエスは来られたが、そのイエスを見て弟子たちが怖がっている場面が描かれている。イエスのことを怖がっている人々に対して、イエスは「安心しなさい。私だ。」と言われます。これはいつも語られている神の言葉です。そう言われてもペトロは確かめたいので、船から降りて、自分の力ではどうしても無理だと思って助けてくださいと叫ぶ。イエスはペトロを助けながら、信仰の薄いものよ。なぜ疑ったのかと言われた。

     この福音書の中で「舟」という言葉に注目してほしいです。舟とは教会のことです。聖書と典礼の注釈にも書いてある通り、マタイ福音書では舟という言葉に自分たちの教会の不安定な様子を重ね合わせてみています。海に浮かぶ船は不安定な乗り物です。ジョニー神父は海が怖い。泳げないので海はとても怖いところと思ってしまうので、近くに行きたくない。ペトロは初代司教様ですから、いまから267代前の司教様になる方ですが、そんな方が舟(教会)からおりておられる。そして、信仰が薄いときは海に沈みそうになる。しかし、その時に助けてくれる方がいた。それが神様です。信頼しましょう。

     この福音書から学べることは、船から逃げようとしたら沈む、沈むことがないように船に戻ろう、かならずイエス様が助けてくださるということです。これから先、私たちの人生において、何があってもイエスが必ず私たちを助けてくださる。そのことを信頼して神様への信仰をもって祈り、信頼を育てていきましょう。

    ◆トピックス

     今日8/9は長崎に原爆が投下された日。日本カトリック平和旬間にあたり、今日のミサでは信徒から寄せられた平和メッセージと教会学校の子どもたちの平和メッセージが奉納されました。

    ◆感想

     奉納された平和メッセージは私たちは平和の道具として、平和のためになにができますかという問いへの答えが模造紙にまとめられたものでした。子供たちからは「戦争はこわいからいや」(小学2年生)というものや「戦争を起こさないためには、教育が大事」(高校2年生)というものもあり一つ一つがその子たちの心からのメッセージでした。「せんそうの話をきく」(小学2年生)というものもありました。とても大切なことだと思います。戦争は忘れたころにやってきます。戦争を知ること、忘れないこと、二度と起こさないために連帯して歩むことが大切です。おとなにはこどもたちに戦争を伝え、知らせる責務があると思います。巷では平和とは相いれない法案が次々に成立し、戦争できる国作りにシフトチェンジした気がしてなりません。それがおかしいと声を上げても、意に介さない政治家の何と多いことでしょう。一人一人が自分の言葉で平和について考える力をつけないと権力と多勢に巻かれていつか来た道に立たされてしまう。私たちキリスト者はもっともっと行動しなければならないのではないでしょうか。そんな焦りと腹立たしさでくらくらする夏ですが、そんな中でも、若い子たちが平和について考えているということは紛れもない希望です。

    奉納された信徒からのメッセージ 左(鳩)は教会学校の子どもたちによるもの

  • 2026.08.02 あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい

    ◆第一朗読 イザヤの預言 イザヤ55.1-3

    ◆第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ8.35,37-39

    ◆第三朗読 マタイによる福音 マタイ14.13-21

    ◆ジョニー神父様のお説教

     皆様は暑い中教会に来て、ミサに与って、説教を聞こうとされています。今日はどんなメッセージをもって帰られるのでしょうか。

     神様はバビロンに島流しになって、そこで奴隷生活を送っていたイスラエルの人々に話しかけられます。奴隷の生活をやめて自分の国にかえることができるよ、もっと楽に生活できるようになるよと約束してくださったのです。しかしなぜ自分たちは追放されて奴隷生活を送るようになったのか、追放の理由を忘れてしまった人がいます。その人たちのために、神は預言者を通して「今から故郷に帰るけれど、これからは決して自分のもとを離れないことを約束してください」と語り掛けられるのです。

     この話と現代の私たちはどう関係があるのでしょうか。関係ない話のように聞こえますか?これは、私たちへの神からのメッセージなのです。私たちは神様からなはれていることがある。好きに生きたいと言って神様から離れてしまっている時がある。そんな時私たちは悔い改め、神に立ち返らなければならないのです。私たちはいろんなものを欲しがります。食べ物、健康、仕事、結婚したい、欲しいものやなりたいものはたくさんあります。それらを欲しがる前に神様に悔い改める、回心することが大切です。

     第二朗読では、イエスキリストの愛は信仰生活の中心であることが語られています。イエスキリストの愛とは、「イエスキリストが私たちに与える愛」「イエスキリストからの愛」「イエスキリストに対する愛」、その愛が欠けるといくら祈っても、いくらミサに与っても意味がない。今日は新約聖書を持ってきました。なぜなら聖書のある箇所を皆様に紹介したいからです。これは有名で日本でも結婚式で朗読されたりします。

    『コリントの信徒への第一の手紙13章』

    1たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 2たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 3全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

    4愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 5礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 6不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 7すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

    8愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 9わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 10完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。 11幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。 12わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。 13それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

     信仰、希望、愛はいつまでも残る。その中で最も重要なのは愛と言われています。皆さまの心の中に愛がありますか?神への愛、イエスへの愛、自分の夫への愛、妻への愛、子どもへの愛、教会に来れば他の信徒への愛。神様は何があっても私たちのことを愛しておられます。だから十字架につけられて亡くなられたのです。私たちは恩返しという言葉をよく言いますが、この十字架で死んでくださったイエスキリストの愛にこたえるために私たちが示さなければならない恩返しがあるとしたら、愛でなければならないのではないですか?

     福音では信者ならだれでも知っていると思われる有名な箇所が読まれました。五つのパンと二匹の魚です。砂漠で、食べ物も水もないなか、イエスのもとに大勢の群衆が集まってきている。イエスはじっと彼らをみて、彼らは元気がないとわかります。私も今日この聖堂にお集まりの皆様をみて、皆様が元気ではない、暑さに負けておられることがわかります。もっとも、ここに来ることができず病気で寝ておられる人もいるでしょう。先日の熊本地震では、人々を救助する方法が紹介されていて、私が神学校で学んだ法則と同じであったので驚きました。人を助けるときは、観察、判断、意思決定、行動の順番で進めます。イエスのもとに集まった群衆を見て、弟子たちはイエスとは全く正反対の態度をとりました。弟子たちには憐みがない。なぜかというと、弟子たちには少しとは言え、パンがあったのに、群衆を解散させようとしたからです。

     さて、日本におけるカトリック教会はどちらの態度でしょうか。イエスの態度か、弟子たちの態度か。断っておきますが、日本におけるカトリック教会という中にはジョニー神父も含みます。私は宣教生活を日本で送っているのですから当然です。皆様にも自分自身に問いかけてほしいです。正直に申し上げると、解散させる態度ではないですか?人を助ける気持ち、人を助ける心はありますか?もし仮にあるとしたら、では助けたい人はどこにいるのでしょうか?遠くの人になっていませんか。身近なところで本当に助けてもりたい人たちはかくれています。その人たちは、私たちに助けを求めても与えられず、やっと助けてもらえる時には嘲笑われる、はずかしいから隠れているのです。アフリカではもちろん、フィリピン、アメリカ、カナダ等多くの国のミサでは、捧げられるものはお金だけではなく、食べ物であったりいろいろなものがあります。それは司祭のためと貧しい人々のための役に立つからです。

     人を助ける心を育てることは大事なことです。この教会ではルールがありすぎて、人を助けるためでも一人では決められない。評議会に相談しなければ何事も判断されないのです。貧しい人はたくさんいます。昨日もこの教会の敷地で炊き出しが行われていました。阿倍野教会にいたときは夜になると多くのホームレスが食事を求めて来ていました。イエスは貧しい人達を助けるのに何もないゼロの状態から食べ物を増やして分け与えたのではなく、あるものを増やされました。

     熊本の前はベネズエラで、その前はフィリピンで地震が起こりました。私たちは大阪玉造教会からFAXで募金活動が指示されるとそれを待って動きます。ベネズエラの地震の募金をお願いしますとアナウンスしたときに、そこにはおおくのフィリピンの信者たちがいたかもしれない。地震で被害を受けて大変かもしれないフィリピンの人たちに向かって、フィリピンでの被害のことは何も触れないで募金だけお願いするようなことがあっては悲しいことだと思います。皆様にはすこし想像力をもって考えていただきたいのです。

     イエスは人々に食べ物を分け与え、食事の前には天を仰いで賛美の祈りをささげられました。私たちは食事の前に「いただきます」といいます。しかし、信者ですからいただきますだけでは祈ったことにはなりません。これは神様からいただいたお恵みです。ありがとうございますと神様に感謝することが大切です。神様に感謝してお祈りし、それに加えていただきますということです。私たちの信仰を日々証して、神からのめぐみに感謝し、より豊かに生きられるように祈りましょう。

    ◆トピックス

     今日は第一日曜でしたが教会学校が夏休みのため教会学校のこどもたちの奉仕はお休みでした。そんななか、男子中学生と女子中学生、女子小学生がベテラン侍者と一緒に奉仕し、女子小学生が先唱、男子高校生が答唱詩編を歌いました。私の記憶にある限り、姫路教会において男子学生が答唱詩編を歌うのをみたのは初めてと思います。低い声だけどのびのびした明るい声で詩編の祈りが胸に響きました。神に感謝。

    ◆感想

     五つのパンと二匹の魚は有名です。たとえわずかなものであっても、それを分かち合おうとする心があれば神様の業によって余りあるほどのものに変えられるというお話と受け止めていました。分かち合おうとする心が奇跡を起こしたのですが、今日の説教ではもっともっと深い気付きをいただいた気がしました。弟子は解散させたかったんだよな・・・パンを持っていたからこそ、解散させたかったのかな・・・私もそうするな、と正直思いました。わずかしかないからと利己的になるのではなく、恥ずかしがるのでもなく、わずかしかないにもかかわらず分かち合う気持で差し出せばよいのだと肩の力が抜ける気もしました。五つのパンと二匹の魚の話はモチーフもかわいらしく、魅かれます。

     久しぶりにスパイシーな語り口のお説教でした。私たちは機械ではないのですから、もっと人間の心を使って!人間らしく想像力を働かせて!!と神様からのメッセージのように聞こえました。

  • 2026.07.19 ”霊”は弱いわたしたちを助けてくださいます

    ◆第一朗読 知恵の書 知恵12.16-19

    ◆第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ8.26-27

    ◆福音朗読 マタイによる福音 マタイ13.24-43、または13.24-30

    ◆ジョニー神父様のお説教

     みさなまは、今日も教会に来て、ミサに与り、福音を聞いて、どんなメッセージを持って帰られるでしょうか。

     第一朗読では、神の忍耐強さがうたわれています。注意深く読むと、神の忍耐強さ、慈悲深さ、あわれみが見えてくる。神は人間に悔い改めるチャンスを与えてくださっている。「今日は悪い子だけど、明日はよくなるでしょう。」「今日は悪い信者だけれども、明日は共同体のために役に立ってくれるようになるでしょう。」といつも父である神の愛をしめされます。私たち人間とは考え方が違っていることに注意しなければならない。私たち人間は最初の出会いで、「この人は悪い人だ」とか決めてしまいがちです。神様は全く違う。神様は私たちのような考え方はされないし、私たちに初めから完璧であることを求められない。完ぺきを求めるどころか、常に回心に招いてくださっているのです。 私たちが神様の招かれる悔い改めの道に入るとどうなるでしょう?私たちはある一つのことを悟ることになります。

     それは、自分ひとりの力ではけっして救いを得ることはできないということ。自分の力だけに頼っていては、救いに至らないのだと気が付きます。救いに至るためには神様の助けが必要だと悟ることになるのです。神様の助けを得られるようにするためにはどうしたらよいのでしょうか。それは、祈りです。神さまどうか助けてください、神さまどうかわたしを導いてくださいとお祈りすることです。

     時に正しく祈ることが難しいことがあります。何をどのように祈ればよいのかわからないときもあるでしょう。それについて、第二朗読で、パウロは、聖霊のことを考えるようにアドバイスを与えてくれています。聖霊は正しいお祈りに導いてくれるでしょう。聖霊の存在と役割を理解し、まず初めに聖霊を求めることが大切です。聖霊運動というグループの方々が祈る姿を見たことがあれば、聖霊を求めるにはどのようにお祈りしたらよいのか理解できるでしょう。ミサの初めにも、ミサの中でも、司祭の言葉の中で、聖霊に祈っています。私たちの日々の祈りのなかにも聖霊に祈ることを忘れてはなりません。

     福音は、ふつうの麦と毒麦のたとえ話です。第一朗読で示された神様の忍耐強さ、いつくしみ深さ、あわれみを説明しています。神の忍耐強さ、いつくしみ深さ、あわれみは人間のそれとはまったく違います。神様の心は人間の心と違うということを表しています。人間の心というのは、毒麦を早々に抜き集めようとする弟子たちの行動に象徴されています。人間は待てない。いますぐ求めようとする。急いでいる態度が弟子たちの行動です。しかし、神様は麦も毒麦も両方とも育つようにされて、時が来れば別になると言われる。私たちの教会にも、いい人がいて、善くない人もいるでしょう。この人にはこの役割を任せられるけど、この人にはさせたくないとか、ジョニー神父は厳しいことを言うからこの教会から早く出ていってほしいという人とか・・・そんな人がいるかもしれない。その人たちは洗礼を受けたというかもしれないが、仮に洗礼証明書を持っていたとしても、本当の意味では神様の道を生きているとは言えないでしょう。

     パンだねとは、神の国の発展に協力する人のことです。みなさんは世間では社会人とみなされていますが、教会に来るときはキリスト者、カトリック信者です。神さまの道を歩んで、神様の国の実現に協力する人であることが求められています。答唱詩編でも人はひとりで救われるのではないと歌っています。私たちも自分ひとりで救われるのではなく、この教会のみんなで救われるほうが良いのではないでしょうか。みんなで救いに与れるように、そのお恵みを願い求め、祈りましょう。

    ◆週報より

     8月15日(土)の聖母被昇天祭のミサは、午前10時からです。朝7時のミサはありません。

  • 2026.07.12 ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで・・・

    ◆第一朗読 イザヤの預言 イザヤ55.10-11

    ◆第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ8.18-23

    ◆福音朗読 マタイによる福音 マタイ13.1-23

    ◆ギャリー神父様のお説教

     日本では海の日という海の恵みに感謝する日があります。カトリック教会でも7月の第二日曜日を「船員の日」と定めて、海にかかわる人たちのために祈りをささげています。

     今日の福音では種が出てきます。イエス様は種をまかれます。ある種は道端に落ちて鳥が食べてしまい、他の種は石だらけのところに落ちてすぐに芽を出したけれども枯れてしまい、他の種はいばらの間に落ちていばらにふさがれてしまった。他の種は良い土地に落ち、実を結んで、百倍、60倍、30倍になった。

     種をまくということは、神様の寛大ないつくしみを表しています。種は貴重で、大切なもので、無駄にすることはできないものです。そのたいせつな種を、つまり神様のお恵みを惜しまず、私たちに与えようとされます。私たちが準備できていなくても、私たちが完璧でなくても、あらゆる場所にいる人間のためにお恵みを注いでおられます。私たちは神様がお恵みを注がれていることを忘れないでいること、覚えていることが大事ではないでしょうか。

     神様はしばしば海にたとえられます。海は人間の日常生活を支え命のもとになる自然の恵みを与えてくれます。そんな海ですが、船員にとって海の上の生活は時には孤立したものとなり、孤独な環境で働くことを意味するかもしれません。そんな海で働く人の苦労のおかげで私たちの生活が成り立っていることも忘れてはいけないことでしょう。口にするもの、身に着けるもののおよそ9割が海を渡ってやってくることを考えればすべてのものに感謝することが大切です。厳しい環境に出向いて行って仕事をしてくれた人のおかげで私たちは海の恵みをいただくことができます。だから海でとれた魚をいただくときに、感謝することは当然でしょう。しかし、私たちは忙しいとき、その忙しさはまるでたとえ話で出てきたいばらのように私たちを邪魔するかもしれません。つまり、忙しいと、漁師やそれに関係している人々に無関心であったり、感謝を忘れてしまったりするのです。私たちは海で働く人々に思いを馳せ、祈ることも時に必要です。教皇様もホルムズ海峡で足止めされた船舶の乗組員のためにお祈りをされました。私たちは自己中心に陥って、感謝することを忘れてしまうということがないようにしたいです。

     今日も神様からは希望を持つようにというメッセージを感じるところです。神様が私たちに豊かに注がれるもの、それはタラントです。いただいたタラントは自分のやり方で豊かにすることが求められています。感謝、おもいやり、祈り、の三つが重要です。感謝することを忘れないで、だれかを思いやる気持ちと余裕をもって、とにかく祈ることです。

     私たち一人一人は小さな働きですが、正義と平和が全世界の人にあるように、豊かなお恵みを願ってみんなでお祈りしましょう。

     ◆トピックス

    今日は林裕美子先生によるミサ前の歌の練習会がありました。そのおかげでミサ中の歌声はやはりのびやかできれいでした。先生に感謝。

    ◆週報より

    日本カトリック平和旬間(8月6日から15日まで)

    1981年 教皇ヨハネ・パウロ二世は広島で「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである。」と述べられました。戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく、具体的な行動でなければなりません。