投稿者: えのきりょう

  • 2026.03.15 キリストはあなたを照らされる

    ◆第一朗読 サムエル記 サムエル上16・1b、6-7,10-13a

    ◆第二朗読 使徒パウロのエフェソの教会への手紙 エフェソ5.8-14

    ◆ヨハネによる福音 ヨハネ9.1,6-9,13-17,34-38

    ◆ジョニー神父様の説教

     主はダビデに目を止められ、ダビデは召し出されたがそれはダビデになにかメリットがあるからではない。召し出しは神様のお恵みが働いたということです。召し出しは神様のお恵みです。

     今日ここに集う信徒のみなさんも神様に導かれてここにいらっしゃるのです。これも神様の召し出しがあり、お恵みが注がれたということになる。皆さんにメリットがあるのではなくて、神様が召し出されたのです。神様のお恵みです。この神の召し出しのお恵みに対して、私たちは信仰と喜びをもってこたえるように求められているのです。

     神様に選ばれる前、私たちはどうだったでしょうか。神様に出会う前は暗闇の中にいたのではないでしょうか。その暗闇の中で神様に出会い、神様の召し出しを受けて暗闇は光に変わったのではなかったでしょうか。パウロは、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子としてあゆみなさい。」と言っています。キリストにであって、私たちはクリスチャンとなったのですから、私たちは社会に光の輝きを表すものなのです。私たちは光を輝かせているでしょうか?以前のように欲望のまま生きるのではなく、愛に根差して生きているでしょうか。もしそうでないならこれから起き上がって、光を表すようにいきるようになれば良いのです。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」

     ヨハネによる福音では肉体の目ではなく、心の目が一番大切であると説かれている。ジョニー神父は以前は目は良かったのに10年ほど前に勉強を頑張ったときに視力が低下して目を悪くしてしまった。その時は眼医者で診てもらい、眼鏡をかけることになり、目は再び見えるようになった。医者は医療で人をいやします。肉体の目はそれで治るが心の目はどうしたら癒されるのでしょうか。

     心の目は信仰の目です。心の目が癒されて、心の目で見えるようになるということは、神様と同じようなものの見方ができるようになるのです。人を見るとき、そのひとの外面的なことだけにとらわれるのではなく、その人のもっとふかいところや目に見えない真実の部分が見えるようになります。心の目は信仰によってみえるようになるのです。私たちの心の目は見えるように開かれているでしょうか。心の目が見えるように心を合わせて祈り求めてまいりましょう。

    ◆感想

     生まれつき目の見えない人の目を神様がつばと土をこねて目に塗り、池に行って洗うと目が見えるようになった。この場面はイエズス様が目の見えない人の目を癒され、目が見えるようにした奇跡の場面であると理解していました。今日改めて福音をよみ、神父様の話を聞いてまた違う掘り下げ方ができることに目からうろこでした。肉体の目が見えないと本当に困ります。しかし心の目が見えないという事はもっと危機的な状況です。神様に出会い、神様を信じ、祈ることでこの目は癒され、見えるようになるのです。この心の目が見えるようになるとこれまでのものの見方と全く違う見方をするようになるというのです。この間からよく聞いている言葉が頭をよぎります。「神様と出会って、神様のことを知った人は、もうもとの同じ自分でいられなくなる。」という言葉。

     心の目で世の中を見ることができるようになると、以前の自分とは同じものも違ってみえるようになるでしょう。洗礼を受け、キリスト者として生きることを決めた時点でその目を授けられていた気がします。その目がよく見えるか曇ったままかはキリスト者としての生き方と信仰により変化するでしょう。私もこの心の目を曇らせることがないように、祈ることでこの目が明るくなるようにしたいです。

     心の目を持つ人はすなわちキリスト者として生きることに召し出された人です。つまり、神様を信じ、永遠の命に至る道をあゆむひとです。今の世の中、多種多様な価値観があるとされながらも結局は声が大きなものの主義主張が幅を利かせ、弱い立場の人はますます小さくされているように思います。有名な政治家が正しいわけではありません。多くの人から熱狂を集める人が正しいわけではありません。私たちが良い目と耳と頭をもち、その主義主張は神様の教えに適う考えかどうか吟味しなければ世界はいとも簡単に間違った方向へ転がってしまう可能性があります。そうなってからでは遅いので、一人の人間として、キリスト者として、市民として、国民として、考え、判断し、小さくても声を上げたいです。

  • 2026.03.07 あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる

    ◆第一朗読 出エジプト記 出エジプト17.3-7

    ◆第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ5.1-2,5-8

    ◆第三朗読 ヨハネによる福音 ヨハネ4..5-15,19-26,39,40-42

    ◆ギャリー神父様のお説教

    今日は「水」がキーワードです。洗礼の時にも水が使われる。水は命に欠かせない。水は命のシンボルです。

     第一朗読ではのどが渇いた民がモーセに向かって不満を訴える場面が描かれている。エジプトから解放された民を待っていたのは厳しい荒れ野の自然だったから、人々は水を飲みたくても水がどこにもない。それで自分たちを連れだして導いたモーセに対して文句をぶつけたのです。困ったモーセが神に助けを求めると、神はモーゼに岩を打たせ、その岩から水が湧き出て民は渇きをいやすことができることになった。その奇跡を通して民は初めて主がなさったことに気が付いた。主を試して、主がちゃんと自分たちの間におられたことを理解したのです。

     このように水は私たちの渇きをいやし、命に欠かせない大切なものです。神はその水のような存在である。私たちの神様への信仰は永遠の命に至るように私たちと神様をつなぐものであり、その信仰によって私たちは満たされている。しかし、実際にどのように私たちの信仰が私たちを満たしているのかについてよくわかっていないかもしれない。

     私たちの神への信仰は、永遠の命に至る信仰であり、私たちと神様をつないでいる。神様は私たちの内側にとどまり続け、絶えず湧き出ていて、私たちを癒し続けておられる。私たちがこのように神様とつながり、神様がいつも私たちのそばにおられるということは私たちにとって大きなお恵みです。イエスこそが命の水の与え主であるといえます。

    ◆感想

     イエスから下された使命により、モーセはエジプトの地で虐げられていたイスラエルの民を脱出させカナンの地を目指すことになりました。このあたりのことは映画「十戒」のシーンがよみがえります。民を開放することを拒んでいたファラオでしたが、エジプトに次々と災難が降りかかり、最後は解放を認めましたが心変わりして追いかけていったところで割れていた海が元通りになったためファラオの軍は海に飲み込まれて全滅してしまいます。

     エジプトを襲った災難とは、ナイル川の水が血に変わる、カエルを放つ、ぶよを放つ、アブを放つ、家畜に疫病をはやらせる、腫物を生じさせる、ひょうを降らせる、イナゴを放つ、暗闇でエジプトを覆う、初子を皆殺しにする、とまあ本当にとんでもない災難の数々でした。その後海を割りながら脱出したシーンが印象に深く、本日の朗読箇所である「モーセが岩を打つと水が流れた」シーンが映画ではどのように描かれていたか今記憶にありません。しかし、のどの渇きほど命の危機を覚えるものはありません。まさにモーセに詰め寄る民は殺気立っていたに違いありません。岩から水が出て民は渇きをいやし命を保った、ということは、イエス(霊的な岩)から救いの水が出てきて民は霊的に満たされて永遠の救いの道へつながったということを想起させるものになっています。私たちの神様への信仰はたどっていくと神ご自身につながっており、そのつながり自体が私たちを満たして癒すものだとイメージしました。

    私たちは魚のよう 神様の愛の中で生きる♪ 今日のお説教を聞きながら、この聖歌を思い出しました。

  • 2026.03.01 四旬節黙想会

    テーマ「回心して 福音を信じなさい」

    講師:カトリック姫路教会 主任司祭 ジョニー神父様

     本当は黙想会と説教はそれぞれ別々であるべきものですけど、忙しい信徒の皆さんにとって黙想会と説教を別々にすると長い時間がかかるので、本日の黙想会はミサの中で説教にかえて行います。ミサのなかで行われるから仕方なく参加するとか、参加しなければならないから仕方なく参加するという姿勢はせっかくの黙想会がただ負担になるばかりで良いことがない。みなさんには、自分はカトリック信者として神様からお恵みをいただき、神様の与えてくださったこの命を大切に正しくいきたいから耳を傾けてみたいという積極的な姿勢で参加してほしい。なぜなら信仰は自由に生きる中でこそ育まれるものだから。強制された信仰は捨てられる場合がある。

     「回心して福音を信じなさい。」

      灰の水曜日のミサではどこの教会に行っても、 司祭が灰を私たちの額にかけながら、 この言葉を唱えます。 回心して福音を信じなさい。 このことばは四旬節の期間中、 最もよく耳にする言葉であり最重要テーマです。信仰の道に入りたかったら回心に招かれているということです。信仰と回心は切っても切れない離れられないものです。

     回心って何でしょうか?

     回心とは、毎日の生活のなかでできてしまった汚れをあらいきよめることです。

     例えば、昔悪いことばかりしていた信者ではなかった人が今は神様を信じるようになった。 信じるようになったとすれば、 過去の生活をやめなければならない。 神様に提案される生活を行い、 神のもとに立ち返る。私は今はもう信仰のめぐみをいただきました。 これからは信仰の道を歩んでいく。 ということです。人間ですから、途中で 神様に求められることをするのを忘れたり、教会の教えを守らなかったり、間違うこともあったでしょう。今、四旬節にあたり、 神様に言われているのは、「 一旦立ち止まれ、チェックしなさい。 ちゃんと今も正しい道を歩み続けているかどうかチェックして、そうでないならば、 もう一度神様に立ち返ろう。 あなたは放蕩息子です。 ちゃんと父の家がありますよ。そこに帰りましょう。」ということです。回心とは自分が間違った道にいることを認めて正しい場所へ戻ろうとすることです。

     もう一つの意味は、 悪を退け、罪の許しを得る。その方法は、私たちの場合は、 許しの秘跡を受けることで、そのチャンスを与えられています。 姫路教会で受けることが無理なら、 加古川でも、 仁豊野でも、この隣の淳心会本部の司祭のところまで 行ってもいいです。 回心の始まりは神様にこの自分の罪の許しを 求めるということなのです。 そして問題は、罪という言葉です。 この言葉を使っているのは、 カトリック信者だけではない、プロテスタントだけではない。 日本の社会でも、 罪という言葉が使われている。 だから、勘違いが結構あるでしょう。葬儀ミサを行っている時などに 死者のために祈っているが、あるご遺族が怒ったことがあります。「 私の母親は罪を犯していない。」「 わたしの父親は罪を犯していない。 」と。つまりこれは、罪の意味が分かっていないからおきる誤解です。罪とは何でしょうか。

     人が神に背き、 神の命令に従わない時に、それは罪となります。 神様から受けた命令があります。 その命令に従わないと、 神様の前では罪になります。 罪は、神の言葉や掟に背くことを望んだりその行為を行ったりすることです。 というのは、人間には自由があります。自分が心の中で決める。「 私はこれをやります。 もう神様に従いません。」そういう気持ちがあれば、 ジョニー神父はそれを見ぬけない。 でも、神様は人間の心を見抜くことができますので、 容易にわかってしまいます。 神様に対して、それは罪になります。 罪とは、神と人間、人間同士の断絶の状態であり、 心の繋がりがない状態です。 言い換えれば、神様との縁を切ってしまう。 人間同士の縁を切ってしまう。 教会に行くときは、椅子に座ったまま、 顔を祭壇だけに向けている。 祭壇には、白い服を着た司祭だけがいる。 神様はいない。 でも、神様は本当に人の中にいる。 なぜかというと、この私たちは、 神様の姿にかたどって作られたものである。 めに見える人間同士、仲間を愛さないと、 めに見えない神様を愛することもできません。 それを心に留めましょう。

       イエスは、マルコの7章、 20節から23節に罪についてイエスの言葉で教えています。 人間の心から出てくるものこそが、人をけがす。 人間の心から悪い思いが出るからです。 罪は私たちの心の中にある。 淫らな行い、盗み、殺意、 姦淫、暴力、悪意、詐欺、 私たちがはたらいているところでは大丈夫ですか。 暴食、妬み、悪口、これはウイルスです。 家族や小教区を壊す者は、悪口、 コロナウイルスみたいなものです。すべて、心の中にあって、 心の中で隠れている。 これらは、プロテスタント教会の人たちの考えたかと一緒です。私たちはどの罪を退けたらいいのでしょうか? 告白したい罪はどれでしょうか? 回心すべきところはどこでしょうか? 心の中でチェックしましょう。 ミサが終わったら 分かち合いすることをお勧めします。 回心すべきところを見つけるために、 神のおきてを考慮してチェックしたほうが、見つけやすくなります。 なぜかというと、 罪の一つの意味は、 神のおきてを守らないということです。 カトリックの教えによると、 神のおきては十戒と呼ばれ、10個あります。

          

    ①私はあなたの主なる神、 私の他に神があってはならない。

    偶像礼拝や占いや迷信を信じて、 生活が左右されることを戒めています。偶像とは、人の知恵で考え出されたものです。 偶像を浮かべることは、自分を神にすることです。

    ②あなたの神、 主の名をみだりに唱えてはならない。

    神の名によって約束したことを 実行することが教えられています。 アフリカでは時には嘘をつくでしょう。 嘘なのに、それを信じさせるために、 神様の名を口に出してしまう。 「神の名によって」と言うんです。

    ③主の日を心に留め、それを聖とせよ。

    日曜日や守るべき祝日には、仕事を休み、 ミサに参加することが教えられている。 日曜日はミサに参加しないと罪になります。 1月1日、元日の日曜日、クリスマスの時、 ミサに預からないと罪になります。 平日のミサを欠席しても罪にならない。 カトリック教会の教えですね。 でも、日本では ある人たちは日曜日まで働いているのです。 その時はどうすればいいのか。 ミサに行くか、仕事に行くか。 仕事に行かないとくびになる可能性が高い。 難しいかもしれない。 だからある小教区では、 土曜日夕方にミサが行われる。姫路教会の場合は毎月ミサがあるし近隣教会でもミサがある。

    ④ あなたの父母を敬え。

    これは特に子供たちにむけてのことでしょ。 どういう 意味だとおもいますか?  父母に従い、指導者を尊敬し、 その教えに聞き従うように教えられています。 指導者というのは、 例えば学校の先生ね。 あるいは日曜学校のリーダーたち、先輩たち。 例えばジョニー神父もね。 だから家では、ママに言われること、 パパに言われることね。 そこに従いましょう。

    ⑤殺してはならない。

    私たちにとって殺すというのは、 ナイフで刺す。 拳を打つ。 でも意味が広いです。 それだけではない。 人を憎み、恨み、 差別や仲間外れにし、 暴力を振るうこと、悪口を言うこと、 殺すことなどがないように教えられている。 ことばで人を殺すこともできるよ。 教会でデブと言われたこともありますよ。馬鹿と言われたこともある。 サッカーを見ている人たちはレアルマドリッドのミニシュスが よく悪口を言われるでしょう。 そう言われたら、殺されていると同じです。 口で誰かを傷つけていないか注意しましょう。

    ⑥姦淫してはならない。 

    結婚式をする前に、男女の肉体的交わりや 結婚した後に、 配偶者を裏切るような浮気や行為をすることが 悪であることが教えられている。 浮気ね。 それは皆様のことだけではないよ。 私もね。 司祭として、 司祭でありながらある女性と仲良くしているとなるとあるところで線を引かなければならない。

     ⑦盗んではならない。

    万引きや詐欺、暴動、盗みなどが 悪であることが教えられている。 それをやってしまえば、罪になります。

    ⑧隣人に対して偽証してはならない。

    嘘をつくこと、偽りの証言をすることが 悪であると教えられている。

    ⑨隣人の妻、夫を欲してはならない。

    ⑩隣人の財産を欲してはならない。

    人のことや人の持ち物、財産を 羨ましがったり、ねたんだりすることが 悪であるという意味です。

    ここで一旦ストップします。心の中で、 この神様のおきてのうちで自分はどのおきてにそむいたことがあるかチェックしましょう。

    この十戒を分かっているとチェックしやすい。 カトリック信者としてこの十戒を覚えていますか。 アフリカでは これを覚えてテストにパスしないと初聖体の秘跡を受けることはできなかった。日本では試験しようとしたら、みんな逃げてしまうでしょう。でもこのまま覚えないままの信徒でいて、それでよくなってしまったら 明日の教会はダメな教会になります。 今はそれを覚える時期です。 このチャンスを逃してしまうと、もうダメです。

     次に、神様にいただいたおきてとして 十戒があって、さらにまた教会にもおきてがあります。

    ①主日と守るべき祝日にミサに与り仕事を休むこと

    日曜日のミサは、病気でなければ、 私たちは必ず参加しなければなりません。ミサを欠席してテレビを見て、東京マラソンだけを楽しむことができません。 まずミサに預かってから、それからマラソンを楽しむことは大丈夫です。 日本の場合は、守るべき祝日といえば 1月1日とクリスマス、 他の国では聖母の被昇天(8/15)を守るべき日にしていることもある。 国によって違う。

    ② 許しの秘跡を受けること。

    毎週じゃなくてもせめて年に一度 特に 復活祭あるいはクリスマスを祝う前に ゆるしの秘跡を受ける。 今日はそのチャンスを与えられています。ミサの後どうぞ受けてください。あるいは ジョニー神父の顔を好きじゃないから、というような場合は隣の淳心会のところへ行ってください。他にも加古川、あるいは飾磨、相生、仁豊野へ行くことも可能です。ご自由に自分の意思で遠慮なく許しの秘跡を受けたいところまで行ってください。 

    ③少なくとも年に一度ご聖体を受けること

    洗礼、堅信は一度しか受けられません。 でもご聖体を受けるチャンスはいつでもあります。 自分の心をチェックして、普段受けることが難しくてもせめて年に一度はご聖体を受けるように頑張ってください。教会においては信者たちに義務だけではなくて 権利もある。 それを覚えておきましょう。 ご聖体をいただくのも権利です。

     ④大祭、小祭を守ること

    断食の日とされているのは昔々は40日間だったが、 今は灰の水曜日と聖金曜日。 断食と言っても何も食べてはいけないという意味ではない。 あるいは、 聖金曜日と灰の水曜日だけ 肉を食べるのを控えることです。 もう灰の水曜日が過ぎたので残っているのは 聖金曜日です。 この前の灰の水曜日に みなさんはこれを守りましたか。

    ⑤ 教会が必要とする 物質的な支援をすること

    簡単に言えば 教会は信者の維持費で保たれているということです。ご聖体、ミサのぶどう酒、今は寒いですから暖房、燃料なども必要になります。 お金がかかっています。 このお金はどこから来るのでしょうか。 これからこの建物を 修繕しないといけない。 皆様の方から援助を 差し出すことが求められています。しかし、注意が必要でしょう。統一協会の問題があります。 ここで求められているのは 自分の給料を全部もってきてください という意味ではない。 子供たちの 面倒を見ない ご主人様の面倒を見ない 奥様の面倒を見ない。本来その家族のために使われるべきはずだったお金を教会だけにもっていってしまったりしないでください。それは教会が求めていることではないので 注意しましょう。みなさんは サッカー観戦したり ビールを飲むでしょう。 タバコも吸っているでしょう。 大谷選手を見るために 東京まで行く人もいるでしょう。 もしそうなら、神様のために 1000円とか、5000円 1枚いいんじゃないの?

      心の中でチェックしましょう。 昨年の 復活祭から 今日に至るまで この教会においても 守りましたか? ご自身が 回心を求められているところは どこでしょう。 心の中でチェックしておいてください。 神様のために 自分の救いのために。 目的は自分のためです。 自分の救いのために 回心しないといけない。

      できれば また私と ここに残っていてこれについて分かち合いしましょう。 信者同士や 他の教会の仲間たちと 分かち合いすることによって より知り合うこともできる。 この共同体ではお互いの名前も 顔も分からない。 淳心会の仲間は時に、私たちは 日本たちの小教区の信者のこと まったく分からないと言っている。 事実です。 原因は宣教者たちが知りたくないから分からないという意味ではなくて 分かるためのチャンスが与えられていないことです。これまで何度も何度も言ったことですが、ジョニー神父はミサが終わると 出口に立って皆様に挨拶するんです。しかしそこを通らないで、顔を見せに来てくれずに別の出口にむかって、自動ドアのほうから上手に出て行ってしまう人がいます。そのようなことで どうやって司祭が信者一人一人のことを知ることができるというのでしょうか。 外国で宣教されている私たちの仲間たちに対して 私たちはうらやましく感じることがあるんです。 良いなぁ良いなぁ良いなぁ。なぜってそこでは信者と司祭がよく知り合ってつながれているから。 ここでは信者と司祭の ことだけではなくて 信者同士が知り合っていない 、話もしたくない。だからこちらから知り合うチャンスをつかみに行くことさえも難しいのです。今私は 一つの悩みを感じているのです。例えば洗礼志願者が いるでしょう。洗礼志願や堅信の時に 代父母を付けるでしょう。その代父母を見つけるのが大変なのです。どうして大変なことになっていると 言いますと 皆が知り合っていない 、勇気を出してこの人に近づいて どうぞ 私の代父母になってください という勇気もない。 それが日本の教会です。 以前 私がまだ 日本の教会にきて間がないころ、洗礼を授けた子がいます。 今は 多分12歳 13歳になっているその子が 自分の 代父母のことを知りたいと思ってさがしているけど誰かわからない。洗礼や堅信を受けた後でも自分の代父母と話せるような共同体を 作りたいです。 姫路教会の場合 どんな教会を作っているんですか? 用事を済ませるだけの場所になっていませんか。 日本の教会に来て 私は日本の代父母の皆さんをさがすことが大変だとわかりました。お疲れ様ですね。みなさんもそろそろ黙想会にお疲れさまですね。この黙想会を通じて皆さんが神様からのメッセージを受け取り神様に立ち返ることができればいいなと思います。

    感想

     十戒をおさらいできてよかったです。そして、教会のおきては正直正直、知らなかったです。(きゃー😢 叱られますね)慣例として知っている、やっている。でもちゃんと掟として掲げられていることだったのですね。むかし、自らのことを「私は不良信者です」と自虐ネタにしたり、友達同士でミサをさぼる人のことを「不良信者」とからかいネタにする時代がありました。これからはこの教会のおきてに背くことが不良信者であるという認識で行動しようと思いました。

     十戒を覚えないとジョニー神父様の故郷コンゴでは初聖体を受けることができないようです。そして、信者が十戒を頭に叩き込んでいない場合、その教会共同体の未来は暗いというジョニー神父様の喝にわたしの目が開いた気がします。ここで信徒ひとりひとりが十戒を叩き込むことが姫路教会共同体の起死回生のチャンスです。教会共同体が大事にしている根幹は十戒を含む神の教えであり、その骨組みを強く鍛えておかないと共同体の骨組みがもろく崩れ、どんなに多くの人が集う教会であってもその未来は明るくないと思いました。

     少ないながら小学生や中学生や高校生世代が黙想会に参加していました。この若い子たちの耳に、神父様の語り口で十戒や教会のおきてが語り掛けられた意義は大きいと思います。初耳だった子もいたと思いますが、良いまなびの種をいただけたと思います。

  • 2026.02.22 実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです

    ◆第一朗読 創世記2.7-9,3.1-7

    ◆第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ5.12-19,

    ◆第三朗読 マタイによる福音

    ◆ジョニー神父様のお説教

     第一朗読では、神が人を作られた。人を作っただけでなはく、神様は人と一緒に生活され近い距離におられたということも表している。人間が、み言葉を大切にし、み言葉を守ることが、神様に協力し、神様に忠実に生きているということになり、それが造り主である神への感謝をささげることにつながっている。

     イブを誘惑したのは蛇です。蛇というのは蛇の姿をかりた悪魔です。悪魔はとてもずる賢いので、イブを誘惑するときは巧妙にイブのあることを利用して誘惑を仕掛けてきた。蛇はイブの何を利用したのでしょうか。

     蛇はイブの不満を利用したのです。

     イブはわかっていたのに最後まで誘惑を断り切れなかった。イブは自分が神様と同じように完ぺきではないとして自分に満足していなかった。満足していないので自分に不満があった。蛇はその不満を上手に利用して誘惑に陥れたのです。

     これでお話が終わると、この話がただの昔話になってしまう。現代でも悪魔はいます。蛇の姿をした悪魔は、現代ではテレビやインターネット、スマートフォンなどに姿を変えているかもしれない。

     第二朗読では、人が罪を犯した結果何が起きたかが書かれている。罪の結果、死が入りこんだのです。罪を犯すと神様と離れることになり、神から離れたところに命はない。しかし、イエスによって私たちは救われた。言い換えると、罪があっても私たちは神の恵みによって許されるのです。私たちは神のお恵みが働くように神に感謝をささげ、忠実にみ言葉を守り、神のみ言葉にたがわない行いをしているでしょうか。私たちの信仰を今一度チェックするときです。

     第三朗読ではイエスも悪魔の誘惑を受けられたことが書いてある。イエスがうけた誘惑は人間が誘惑を受けるのとは決定的に違う点がある。それは・・・

     イエスのうけられた誘惑は聖霊の働きによるものであり神の御計画のうちであったということ。イエスは悪魔の誘惑に敗れず、打ち勝った。どのようにしてイエスが悪魔の誘惑を退けたのかというと、聖書に書かれた言葉を使って打ち勝ったのです。

     四旬節は、私たちの信仰を振り返るチャンスです。私たちの信仰は大丈夫でしょうか。日曜日にミサにあずかるつもりにしていてもオリンピックの試合を見過ごせなくてテレビから離れられないからミサにあずからないなどということがないでしょうか。今日は大阪マラソンがあって、とか姫路マラソンがあってミサにはあずからないでいいとかそんな誘惑に負けることはないでしょうか。神に立ち返るために、み言葉を大切にして、喜びをもってみ言葉に従った行いをすることが大切です。日曜日に教会に来て、その時だけみ言葉を味わうのでは足りないでしょう。家でも一日一節でも聖書をよみ、み言葉を味わえるように努力しましょう。そして、み言葉を武器にして、悪魔の誘惑を退け、悪に打ち勝っていきましょう。

    ◆トピックス

     ・今日はミサの中で一人のベトナム女性の洗礼志願式が行われました。本日は都合によりミサにあずかれないけれどもう一人別のベトナム人の志願者がいらっしゃるそうです。

     ・今日はエルベ(Herve)神学生の30歳のお誕生日でした。ミサの中でもエルベ神学生に神様のお恵みがあるように意向がささげられました。おめでとうございます。エルベ神学生はジョニー神父様と同じコンゴ民主共和国の出身で、来日後しばらくの間大阪の富田林で過ごし昨秋より姫路教会に隣接の淳心会本部にお住まいです。ご両親とご兄弟は故郷にてご健在です。

     ・3月1日(日)10時のミサの中で四旬節の黙想会があります。

      テーマは「回心して福音を信じなさい」

      講師はジョニー神父様 

      どなたでもごミサとミサの中で行われる黙想会にご参加いただけます。10時より少し前にカトリック姫路教会にお越しください。扉を開けて中に入ると、正面に聖歌集や聖書と典礼が置かれたテーブルがあります。必要な資料を受け取ったらそのまま中へ進み、自由に着席してください。初めての方や案内が必要な方はそのテーブル付近にたいてい宣教チームのスタッフが立ってくれているので声をかけてみてください。

     ・ゆるしの秘跡促進旬間がはじまっています。日曜日に受けることが難しい場合、主任司祭に申し出れば任意の日時にも可能です。

    ◆感想

     み言葉を武器に悪を打ち負かすというフレーズに衝撃を受けました。武力ではなく、み言葉でもって悪魔を退ける。み言葉が大切だということは、きっとこれまでも教会で何回も聞いたことがあるはずですが、わたしの右耳から左耳へ抜けていくだけだったのでしょうか、ピンとくることがなかったかもしれません。今日ジョニー神父様から「み言葉を武器に悪に打ち勝ってまいりましょう」とミサ冒頭とお説教でも聞かされ、初めてハッとしました。

     キリスト者に与えられた強さとは、神様の教えでもって善悪を判断し、み言葉でもって悪の力に打ち勝つことができるということなのでしょう。社会の不正や、弱い人はさらに弱い立場へ追いやられる悪しき構造などに対して、おかしいと声を上げる人間でありたいしあらねばならないと思いました。無力さにさいなまれる必要はなく、私たちには力がある。キリストの教えを試金石にして世の中を見分け、み言葉を語ることで悪を退ける力がある。

     悪魔である蛇が人間を誘惑に陥らせるとき「不満」を利用したというくだりは、背筋が寒くなる話でした。私が連想した悪魔の仕業は戦争です。戦争は突然始まるわけではなく、戦争をするための準備が周到になされるのです。今月行われた衆議院選挙では、政治や国のリーダーに対する国民の不満が高まる中、不満の矛先が弱い立場の人たちや外国人に向けられ、めくらましの政策論争が繰り広げられました。結果的に戦争を可能にする国作りに進む政権を容認するような結果となりました。不満が利用されたのです。現代社会にも悪魔の誘惑はあります。私たちキリスト者は神様から善悪を判断する知恵と、悪に打ち勝つ武器としてみ言葉をいただいています。私にある力を認め、少しでも力を発揮できるように勇気を出したいとおもいました。

  • 2026.02.15 わたしが来たのは律法や預言者を・・・・完成するためである

    ◆第一朗読 シラ書 シラ15.15-20

    ◆第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 コリント2.6-10

    ◆第三朗読 マタイによる福音 マタイ5.17-37

    ◆ジョニー神父様のお説教

     今日の福音からどんなメッセージを受け取ることができるでしょうか。第一朗読では、神はいつでも人間の自由を尊重するということが書かれている。

     神は人に罪を犯す許可を与えてはいない。信仰は自由であり、好きなことをしてもよい。しかし悪を避け、善を行わなければならない。そのことを守らないと死に至るが、戒めを守れば神の国に入る。

     そのことを守るのも守らないのも人間、私たち一人一人の自由意思にゆだねられている。ジョニー神父も皆さんに向かって説教をするが、警察官のように皆さんを監視したり取り締まったりはしない。つまり、私たちの行動は、一人一人の自由意思と責任において行われているのです。

     第二朗読では、人間には選択する自由があるということが書かれている。

     第三朗読では、律法に書かれていることがその言葉にとらわれて形だけで守られることよりももっと深い意味で理解され、本当の意味で悪を避けるようにと説いておられる。例えば十戒では、「殺すな」と書いてある。相手の息を止めてしまう、血を流させることをしないことはもちろん重要だが、その前に、相手を憎むことがなければその先に殺そうとすることもないはずである。怒りや憎しみを抱くことがないようにすれば殺人もしないで済む。

     「姦淫するな」と命じられているが、イエスはもっと深い意味でその行為を悪としておられる。行為そのもの以前に、みだらな思いを持って相手を見る、妄想も悪だと言われている。

     文字通り、型通りに規則を守ることだけでは完全ではなく、その規則の意味する精神にも思いいたし、その精神を守るようにと説いておられるのです。

    ◆感想

     規則が規則だからという理由だけで厳密に守られることだけを優先させたら本末転倒である。規則の意図をくみ取り精神を守ることが重要ということでしょうか。

     ジョニー神父様はしばしばご聖体をいただくときの私たちの心の状態が、ご聖体をいただくのにふさわしい状態であるかどうかと問いかけられます。教会に来てごミサにあずかり、ご聖体をいただくというときに、心が荒れていたり、人を許せずかたくななままであることには矛盾があります。そのような矛盾を引き起こさないために、私たちの行いと心が一致しているかを点検することが大事だよということでしょうか。ご聖体をお迎えするときの心の状態にも気を付けたいです。

     律法や規則の言葉にはその言葉が表すより深い意味が内在しています。その深い意味の精神を理解し、行為とその精神が矛盾しないかということを考え、人間の自由意思において行動するようにということが大事だと言われていると思いました。

    ◆トピックス 週報より

     灰の水曜日のミサは2月18日(水)10:00と19:00です。

  • 2026.02.08 あなたがたは地の塩・・・・・世の光である

    ◆第一朗読 イザヤの預言 イザヤ58.7-10

    ◆第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 コリント2.1-5

    ◆第三朗読 マタイによる福音 マタイ5.13-16

    ◆ギャリー神父様のお説教

     イエスは弟子たちに向かって、あなたがたは地の塩である。と語られたが、これは「あなたがたは地の塩になりなさい」と言われなかったことに注目してほしい。つまり、私たちは人間である、人間一人一人の存在それ自体がすでに「地の塩」だということを言われているのです。

     「あなたがたは世の光である」といわれた。光といえば、ギャリー神父は故郷フィリッピンのクリスマスを思い出す。クリスマスツリーに灯される灯りの一つ一つが光り輝いていて、とてもきれいだった。その灯りの色も明るさも一つ一つ違う。青色で強く光る灯りやオレンジ色でやさしく光る灯りなど。

     大切なことは、みんなクリスマスツリーを飾るひかり輝く灯りであること。その色や明るさが違っていても、みんな同じ灯りです。大切な灯りだから、自分も一生懸命光る。そして、となりの灯りの光も大切にして調和しながら大きなきれいな光の輪になり、その輪が広がる。人間もこのあかりと同じです。私たちはみんな神様によって作られた人間です。一人一人の才能や個性は違っていても、みんな同じ人間です。自分なりの輝きを大切にして、そしてとなりの人の輝きも大切にして、一緒に輝く、その輪が広がる。

     神様が作られた人間である私たちは、自分たちを大事にして、となりの人のことも大事にして、互いに認め合うように招かれています。

    ◆感想

     あなたがたは地の塩 世の光である。とはよく聞く聖句。今日この言葉を聞くと、人間が人間らしさを失ってはいけないという意味に聞こえてくる。ギャリー神父様に倣って、わたしもクリスマスツリーの灯りを思い出してみた。現代のLEDのシャープな輝きではなく、当時はナツメ球の温かみのあるおもちゃのような輝きでした。当時、その光を眺めるとクリスマスの特別なわくわくした気持ちになったことを思い出します。

     あなたがたは世の光であると言われてみて、あの灯りに自分を重ねてみたらなんだか懐かしさとうれしさがあふれてくる気がしました。自分を大切に、そして身の回りにいる人たちを大切に、その大切の輪を広げていけば世界は一つになる。いみじくも今日は衆議院選挙の投開票日。結果にくらーくなってしまいがちな私に今一番の薬は、「あなたは地の塩、世の光であり、あの人も同じである。互いに尊重しあおう」という神様からの励ましだったりする。