投稿者: えのきりょう

  • 2026.04.19 復活節第三主日 イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた

    ◆第一朗読 使徒たちの宣教 使徒言行録2.14,22-33

    ◆第二朗読 使徒ペトロの手紙 ペトロ1.17-21

    ◆第三朗読 ルカによる福音 ルカ24.13-35

    ◆マタタ神父さまのお説教

     今日は神学的な難しい話はしません。簡単なことをお話しましょう。福音では、二人の弟子がエルサレムからエマオという村へ帰っていく道中のことが書かれている。エジプトから解放されたことを記念して毎年お祝いする祭りがあり、イエスはその期間に十字架につけられて殺された。だからその祭りからの帰り道、弟子たちは深い悲しみに打ちひしがれて、暗い顔をして歩いていました。

     その時の弟子たちは今の聖堂の皆さんと同じだと思います。この聖堂には日本人、ベトナム人、色々な国籍の方々が集まっています。誰がどんな人なのかわからないけれど、集まっているうちに私たちは神様に癒されていく。歩いていた弟子たちははじめはイエスのことがわからなくてイエスと顔を合わせているのに知らんぷりをしていた。イエスは弟子たちがわからないことを「物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったではないか」と諭しながら聖書に書かれていることを説明されました。それでも弟子たちはその旅人がイエスだとは気が付かないままでした。政治的な指導者によってイエスが殺されたことで心の目も肉体の目も見えなくなってしまっている状態だったのでしょう。その後、一緒にお泊りくださいとイエスを引きとめて一緒の家に入り、食卓でパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを割いてお渡しになったとき、二人の弟子たちの目が開け、その旅人が復活したイエスだと気が付き、その瞬間にイエスは見えなくなってしまいます。

     私は30歳代のころ、とても忙しい毎日を送っていました。5:00に起床して、5:11の電車に乗って東京駅に向かい、東京6:00始発の新幹線に乗り、姫路に9:25到着して、会議に参加して、姫路発17:45の新幹線に乗って東京に帰っていました。あまりに忙しいので、自分がどの駅で降りるのかさえわからなくなる時があったのです!(笑)こんなに忙しいと、大切なことがわからなくなります。弟子たちと同じですね。

     私たちは聖堂に集まり、入際の歌を歌い、聖書を朗読して、司祭はパンをさきます。その儀式を行うたびにイエスを思い出し、ご聖体をいただいて心の中にイエスが住まわれます。この体験は弟子たちが体験したことと同じことをしているのです。イエスは、神の前には私たち人間は皆神の子であると言われました。パンを食べ、盃を飲むたびにイエスが教えられたすべての教えを思いめぐらします。イエスのことを思い出し、聖堂にいる自分が知っている人でもも知らない人でも、様々な関係の人たちと共にこの儀式にあずかり、イエスのことを思い起こしながら共に歩むとき、すなわちそれはイエスが私たちと一緒にいてくださっているということなのです。イエスがともにいてくださることに喜びを感じ、私たちの心に神様がいてくださることを感じます。

     暗い顔をして歩いていた弟子たちは、復活したイエスに出会うことで心に灯がともり、元気になってイエスとの出会いや行いを話すようになりました。どんな問題も神様にとって解決できない問題はありません。何らかの形で神様は私たちにいつも何らかの形で道を開いてくださいます。私たちは、ともにいてくださる神に感謝しながら、信頼して祈りましょう。

    ◆感想

     マタタ神父様によるミサと説教は今日で二回目です。説教冒頭に、「今日は神学的な難しい話はしません」と前置きをされました。前回は神学の歴史や地理を話されましたが、今日はエマオの旅人がイエスだった話をわかりやすいことばで話してくださいました。政治的な策略によってイエスを殺されて、自分たちの活動を失敗と思って弟子たちは暗い気持ちで歩いていたけど、旅人に聖書全体にわたりイエスについて書かれていることを説明され心に灯りがともり始め、旅人が賛美の祈りを唱えてからパンを割いたときにはっきりとそれがイエスだと気が付いて、復活したイエスと心の底から出会ったのです。なかなか衝撃的な、気づき体験だと思います。マタタ神父さまは、私たちがミサに与るたびに弟子たちと同じ体験をしているということを話されました。解説を聞いて本当にそうだと驚きをもって理解し、腑に落ちました。

     エマオへの道の物語は美しい情景です。この物語のなかに自分の体験もあるというおもいであらためて眺めると、とてもすてきな気分になりました。マタタ神父様は「弟子たちは歩くうちに癒された」と言われました。私が問題の前に立ちすくんだり、悲しみで打ちひしがれても、誰かと一緒に歩き出したら歩くうちに癒され、癒される中にお恵みを受け取り、目が開けて、神様と出会い、根底から癒されるのだから問題があっても大丈夫だと言われている気がしました。

  • 2026.04.12 復活節第二主日 信じないものではなく、信じる者になりなさい

    ◆第一朗読 使徒たちの宣教 使徒言行録2.42-47

    ◆第二朗読 使徒ペトロの手紙 ペトロ1.3-9

    ◆第三朗読 ヨハネによる福音 ヨハネ20.19-31

    ◆ハルノコ神父様のお説教

     今日の福音個所では何度も何度も繰り返し出てきた言葉があります。それは、「平和」です。あなたがたに平和があるように、と三度も書かれています。聖書の中で繰り返し出てくる言葉というのは、重要なポイントという意味です。学校の場合では、先生がなんども同じことを生徒に教える場合、それは「これがポイントですよ。試験に出ますよ。」ということと同じです。

     弟子たちは大切なイエスを失ってしまって、イエスと同じようにとらえられることを怖がって、小さな家の二階に鍵をかけて閉じこもってしまっていたのです。私もエルサレムにいたとき、現存する小さな家へ行ったことがありますが、とても小さくて狭いです。そこにみんなで集まっておびえていたのです。

     私たちも生活の中でこの弟子たちと同じような状況を体験することはないでしょうか。仕事のこと、人間関係のこと、家族のこと、などなど理由は様々ですが、怖くなったり、困ったり、悲しんだりして心が打ちひしがれて閉じこもってしまうときがあるのではないでしょうか。そして今日の福音では弟子たちがそのような悲しみや恐れの中にあるときにイエスがあらわれたのです。それはなんとうれしいことでしょうか。何という喜び!

     私も若いときに両親を亡くしました。だからいつも両親に会いたいと思っていました。皆さんも愛する家族を失ったり、恋人が去ってしまったり、そんな体験があるでしょう。その人にもう一度会いたいと強く願うでしょう。そのような時、また会えたら、とてもうれしい。大きな喜びですね!

     いったい平和はどこから始まるのでしょうか。それは、わたしたちの心の中からではないでしょうか。イエスはまず自分の傷を弟子たちに示して、「心配しないで大丈夫だよ。この私も大変なことがあったけど、こうして今は大丈夫だから、あなたも大丈夫。心配いらないよ。」と語り掛けられました。弟子たちはイエスに会い、うれしくて心が慰められて、元気になりました。イエスが自分の傷を示しながら近くに来てくださったからです。そのときの心の状態は平和です。私たちも相手に自分が受け入れられ、許されるとき、ほっと安心するでしょう。そしてその時のほっとした気持ちやうれしい気持ちであるときには、言葉を超える平和があります。

     私たちもまずは一番身近な人、例えば家族との間に平和があれば、その平和は少しづつ周りにも広がって、平和な社会、平和な世界になっていくでしょう。私たちは平和を求め、平和があるように祈り求めましょう。

    ◆トピックス

     週報より:ジョニー神父様の不在中のミサの対応について

    4月14日(火)~25日(土)までの間、平日のミサはありません。

    ◆感想

     今日もご復活をお祝いしました。ミサ開始前に恒例の歌の練習があったおかげで信徒の皆さんの歌声もよく響き、またいつもの侍者に加えて3人の練習生も加わり、総勢5人の侍者と神学生も奉仕しておられ、盛大なごミサに感じました。侍者たちへハルノコ神父様からねぎらいと感謝のことばがかけられ、信徒のみなさんにも温かい見守りと励ましを求められました。

  • 2026.04.05 復活の主日 イエスは死者の中から復活されることになっている

    ◆第一朗読 使徒たちの宣教 使徒言行録10.34,37-43

    ◆第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 1コリント5.6-8

    ◆第三朗読 ヨハネによる福音 ヨハネ20.1-9

    ◆ジョニー神父様のお説教

     ご復活おめでとうございます。毎日のどの調子がすぐれなかったですが、待っていられないので今日はもう復活させましょう。

     イエスのご復活は今でもミステリーです。本当に死んだイエスが生き返ったのか?そんなことが可能か?信じられなくて、誰もが自分の目でその瞬間をみたいと思うのではないでしょうか。イエスの時代には現代の防犯カメラのようなものはなかったので、イエスが亡くなられたときの時刻や衣装などは誰も見たことがない。現代社会では自分の目で見たものしか信じられないかもしれないが、昔は昔話のように耳から聞かされていた。ただ、イエスは復活し、その姿を弟子たちや一部の人にあらわし、彼らと一緒に食べたり飲んだりされた。現代の私たちがそのことを見る方法はない。ただ信じるしかない。それは信仰の問題です。その信仰がなければ、ミサの意味は理解できないでしょう。復活を頭で理解いようとしないでください。ペトロは信仰の神秘といっている。信じて、信仰を強めていくことでわかるようになります。ミサはイエスの受難と死と復活を記念しているので信仰がないとミサの意味が分からない。

     第二朗読では、洗礼を受けた人に向けられたメッセージが書かれている。洗礼によって古い自分が死ぬが、イエスと共に復活するから新しい自分になる。だから自分は今までの自分ではない。昨日洗礼式が行われたが、洗礼を受けた人だけでなく、それをみて私たちも新しくされたので、私たちにも同じメッセージが向けられている。

     ヨハネによる福音では、死んだイエスが墓からいなくなっている場面が書かれている。普通、自然にはありえない。だからまず信じなければならない。福音書にも「もう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」と書いてある。この言葉はとても重要です。信仰はスマートフォンのバッテリーのようなもので、たびたび充電しないと少なくなってなくなってしまう。みなさんも自分自身の信仰が減ってしまわないように注意しながら毎年洗礼式に立ち会ったり、毎週日曜日ミサに与って信仰というエネルギーを充電しましょう。

    ◆トピックス

     ミサの後で昨日洗礼を受けたお二人の紹介が改めてあり、証明書が授与されました。お二人には日本語がわからなくても恥ずかしがったり遠慮する必要はない。臆することなく教会に来て皆さんと交わるように励まされました。またジョニー神父様は、私たち先輩信徒たちにはこの新しい仲間を守り励ましていく責任があると諭されました。

     ジョニー神父様からのお話「みなさんは新しい仲間に挨拶すること、温かい励ましの声掛けをすることで仲良くなり、守り、育てることができます。日本の信徒たちはただこれだけのことができないことが多い。日本の教会から司祭や修道者が誕生しない原因は信者同士の関係が冷たいことや一部の代表者や司祭に負担が集中してしまい司祭が楽しそうに仕事をしていないことだと思う。ジョニー神父が体調を崩しても誰も代わりの司祭はいない。聖職者が生まれないのは信徒である皆さんの責任です。喜びをもってたのしく仕事ができない状況に置かれる司祭を見て、だれも同じことをやりたくないと思っている。親たちも子供を司祭にしようと思わない。しかしそれは本来の目指している姿ではない。ジョニー神父のフェイスブックを通して知ることに、外国にはたくさんの生き生きと喜びにあふれた仕事をしている司祭がたくさんいる。信者同士の関係が希薄だと教会は死んでしまいます。姫路教会がこれからも生きた教会であるように皆さん一人一人の心がけをお願いします。」

    ミサの後、もちよりパーティがありました。

    幼児から中学生の総勢40人の子どもたちは淳心会修道院のお庭でエッグ探しをたのしみ、お菓子が配られました。

    ◆感想

     昨日に続き、ジョニー神父様の厳しいお言葉でした。ジョニー神父様から見ると、姫路教会の信徒はどれだけ冷たいと映っているのか気がかりです。昨日の復活徹夜祭の説教では、教会共同体は霊的家族と表現されました。だから家族みたいに温かい関係を築くことや自分の居場所と感じてもらうくらいの居心地の良さを感じることが求められているレベルなのだと思いました。まだまだ足りないのだなと反省するともに、もっともっと頑張ろうと思いました。Happy Easterと信徒同士言葉を交わすなかに温かい心の交流を感じました。この感覚をもっと多くの人と分かち合えるようになればいいと思いました。

     昨日の嵐からは一転、お花見日和となりました。姫路教会の目の前に姫路城があり、周辺には大勢の花見客がみえました。春の陽気と道行く人々の笑顔をみて、平和と幸せを感じました。

  • 2026.04.04 復活の聖なる徹夜祭

    ◆第一部 光の祭儀

     聖堂の外のピロティにかがり火が燃やされています。ジョニー神父様が大きな新しい復活のろうそくを祝福し、そのろうそくに火をともし、信徒たち一人一人のろうそくにも火がともされた。復活のろうそくを先頭に教会の中の聖堂に向かって行列をし、キリストのひかり♪とブラザーが歌い、神に感謝と会衆が答えました。ろうそくの灯をともしたまま復活賛歌を歌いました。

    ◆第二部 ことばの典礼

     聖堂の電気がついて明るくなり、ろうそくの灯を消して着席しました。朗読がいくつか読まれました。福音朗読はルカによる福音(ルカ24.1-12) 

    ◆第三部 洗礼と堅信

     二人の成人女性と一人の幼児が洗礼を受けられました。

     共同祈願では中学生の女の子が今夜受洗した3人をお祝いし、共同体の仲間になってくださったことを歓迎し、これからも心を合わせてお祈りできるようにと聖霊のめぐみを願いました。

    ◆第四部 感謝の典礼

     受洗したお二人がパンとぶどう酒を奉納し、ミサがささげられました。

    ◆ジョニー神父様のお説教は今日も代読でした。代読された説教では復活の神秘を頭で理解しようとしたら失敗します。信仰をもって、教会に通って、ミサに与るようにと諭されました。

     神父様により、受洗者の紹介がなされました。ベトナム出身の若い女性(お1人は洗礼名カタリナ、もうお1人はアガタ)とベトナム人夫婦の子供として生まれた赤ちゃん(洗礼名ヨハネ)の三人です。ジョニー神父としては今年は洗礼志願者はいないと思っていたが実際3人も洗礼を受けることができ、うれしい。このことが実現できたのは、姫路教会ではなく仁豊野にある姫路聖マリア病院のシスター(フランシスコ修道女会)が忙しい看護師としての仕事の傍ら毎週夜に時間を取って指導してくださったおかげである。シスターに感謝しますと紹介されました。また、同じ修道会のシスター他2名にも感謝し、紹介がありました。シスターに頼らざるを得ない理由は姫路教会の事情として、ジョニー神父以外に洗礼志願者に勉強を教える人がいないことだそうです。昨日と今日の答唱に加わってくださっていたパウロ会のブラザー(大阪)にも感謝が述べられ、紹介がありました。今夜のミサのために準備や典礼に協力してくれた人たちにも感謝が述べられました。また侍者(いつものメンバー2名に加えて中学生の侍者も加わり今夜は4名の侍者でした)にも感謝が述べられました。

     ジョニー神父様から洗礼を受けた二人にお願いがあり、シスターがベトナム語に通訳して伝えてくださいました。

     ジョニー神父よりお二人にお願いです。一つ目は、これからも教会に来てください。あしたも日曜日ですからミサとパーティがあります。しばしば洗礼を受けたらもう教会に来なくなってしまうことがあります。それは残念です。2つ目は両腕を組んでふんぞり返って座っているだけの信者にならないでくださいということ。教会に来ているのに自分は何かをしてもらうだけでいるという態度は日本でよくみられる悪いウイルスみたいなものです。なんでも神父に任せる、なんでも評議員に任せる、なんでも他人事。そんな態度はやめてください。

     受け入れする側の皆さんにもお願いします。新しい仲間をあたたかく受け入れて、みんなで共同体を作ってまいりましょう。姫路教会は国際色が豊かな共同体です。日本人がいなくなったら、姫路教会ではない。ベトナム人がいなくなってしまったら、姫路教会ではない。フィリッピンの人がいなくなってしまったら、姫路教会ではない。南米の人が大事にされなかったら、それも姫路教会ではない。どの国の人のこともお互いに尊重する共同体であり続けてほしい。ジョニー神父がいなくなってもそれはかわらない。姫路教会はジョニー神父のものではなく、信徒の皆さんで作るものです。教会は皆さん一人一人の家であり共同体は霊的な家族です。人がいなくなれば教会はつぶれます。教会がつぶれたら、神様に裁かれるのは皆さんですよ。裁かれた時の言い訳を今から考えるよりも、そうならないように頑張ってください。

    ◆感想

     今日は春の嵐の一日でした。昨日は満開を迎えていた桜も今日の風雨で散ってしまったと思うと残念です。しかし、夜はろうそくの灯りをともし、教会に集い、洗礼式に立ち会い、心があらわれるようでした。今夜は2時間を超える徹夜祭でした。聖木曜日に始まり、聖金曜日、復活徹夜祭とお恵みに与り、とても豊かな3日間だと思います。

     

     

     

  • 2026.04.03 聖金曜日 主の受難

    ◆ことばの典礼

     第一朗読 イザヤの預言 イザヤ52.13-53、12

     第二朗読 ヘブライ人への手紙 ヘブライ4.14-16、5.7-9

     第三朗読 ヨハネによる主イエス・キリストの受難

    ◆ジョニー神父さまの説教

     昨日同様神父様ののどの調子がすぐれないため、ベトナム語、英語、日本語で用意された説教が代読されました。

    「愛する兄弟姉妹の皆さん、

    私たちは今、ヨハネによる福音における主の受難を聞きました。

    主イエスはとらえられ、裁かれ、十字架へと引き渡されました。

    弟子たちは離れ、ペトロは主を否み、群衆は沈黙のうちにそれを見守りました。

    ここに、人間の弱さと罪の現実があります。

    しかしそのただ中で、主は揺らぐことなく歩まれます。

    兵士たちの前で「わたしである」と名乗り、

    十字架の上で「成し遂げられた」と宣言されました。

    主は、強いられてではなく、

    自ら進んでその道を歩まれたのです。

    それは私たちのためです。

    私たちの罪のため、

    私たちの救いのために、

    主はご自分の命を完全に与えつくされました。

    愛するみなさん、

    この十字架の前で、私たちは何を見るでしょうか。

    それは裁きではなく、赦しです。

    拒絶ではなく、愛です。

    そして孤独ではなく、「共にいてくださる神」です。

    どのようなときにも、主は私たちに語っておられます。

    「わたしは決してあなたを見捨てない。」

    この確かな約束が、十字架において示されました。

    今日、私たちはこの十字架のもとに立ち、

    沈黙のうちに、この大いなる愛を受け入れましょう。

    そして、主の救いに信頼し、

    この方に従って歩む恵みを願い求めましょう。

    アーメン。」

    十字架の礼拝

    交わりの儀

    ◆感想

    十字架賛歌が男声女声混合で歌われ、その歌声がとてもよく響き、心に響きました。おかげでよりふかく十字架を黙想し賛美することができました。

  • 2026.04.02 聖木曜日 主の晩餐の夕べのミサ

    ◆第一朗読 出エジプト記 出エジプト12.1-8,11-14

    ◆第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 1コリント11.23-26

    ◆第三朗読 ヨハネによる福音 ヨハネ13.1-15

    ◆ジョニー神父様のお説教

     今日は風邪をひいてしまい声が出ません。あらかじめ紙に書いておいたので、ベトナム語、英語、日本語でそれぞれの代表の方に代読してもらいます。

     英語、ベトナム語、日本語の説教が代表者によって代読される。

     聖木曜日のミサではキリストが聖体を制定し、自らの記念としてこれを行うように命じた最後の晩餐を記念しています。パンを分け合うことを通してキリストとの一致を味わい、ミサが一致の秘跡であることが示されるのです。

     キリストは私たちに互いに愛し合うことを説くために、弟子たちの足を洗われた。主であり師であるキリストが弟子たちの足を洗ったのだから弟子たちも互いに足を洗い合わなければならないと言い、兄弟愛の模範を示されました。

     互いに愛し合うという兄弟愛は、主の生き方そのもので、私たちの模範となるものです。私たちは日々の生活の中でこのことを実践するように招かれているのです。

     そしてミサの中でパンはご聖体、イエスそのものです。イエスはご自身をご聖体として私たちに与えつづけ、私たちのうちにとどまっておられるのです。今日はこのことを黙想して、イエスが私たちと共におられるということを味わいましょう。

     わたしたちはこの神の愛に信仰をもって報いていくことが求められていると思います。皆さんはいつも忙しい。そんな忙しい中今夜はミサに与り、お疲れであり、早く帰りたいでしょうが、しばらく時間を取って聖体のそばでしばらくキリストの受難と死を黙想しましょう。キリストは私たちのために死んでくださったのですから。

    ◆洗足式

     お説教代読の後、あらかじめ決められた12人の信徒が祭壇前に並んで座り、一人一人ジョニー神父様に足を洗ってもらいました。

     この12人は老若男女の国籍もバラエティに富んだ方々が並んで座っておられました。小学生の男子2名もわくわくした表情で洗足式に臨み、実際に足を洗ってもらい嬉しそうでした。

    ◆聖体安置式

     聖体拝領の後、聖体を聖堂後方の安置所に移し祭壇上からはすべてのものが取り除かれました。安置された聖体の前で皆がしばらく祈りを捧げました。 

    ◆感想

     洗足式で神父様に足を洗ってもらうというのはどのような体験なのか興味津々です。小学生の男の子2人はとても嬉しそうでした。1人の子のおかあさんはミサの後で、「足を洗われているわが子を見て涙がでた、仕事が大変だからとか悲しいとかではないのに、自然に涙があふれた。聖霊のはたらきで霊に満たされたのだと思う。」と感想を述べておられました。子供のほうも、「弟子のひとりになったよ」と素直に喜んでいました。その感想を聞いて私もうれしい気持ちでいっぱいになりました。例年はせいぜい3人程度が足を洗ってもらうのに比べ、今年は12人と人数も多かったです。ぜひ一人一人に感想を聞いてみたかったです。

     互いに愛し合うことを命じられた私たちですが、この洗足式を見て、神様の言われる愛し合うということの意味をつかみやすくなった気がしました。互いに愛し合いなさいということは、互いに足を洗い合いなさいということですなのですね。