~日曜日、教会の説教を聞いて心にひびいたこと~

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  • 2026.09.20 主を訪ね求めよ、見いだしうるときに

    ◆第一朗読 イザヤの預言 イザヤ55.6-9

    ◆第二朗読 使徒パウロのフィリピの教会への手紙 フィリピ1.20-24,27

    ◆福音朗読 マタイによる福音 マタイ20.1-16

    ◆ジョニー神父様のお説教

     今日も皆様はどのようなメッセージをお持ち帰りになるのでしょうか。第一朗読から見ていきたいと思います。

     第一朗読は、バビロンに島流しになっている民への希望のメッセージです。故郷を離れて島ながしの苦労にあい、希望を失っている民に対して、神様は憐れみ深い方なのでイザヤを派遣して希望のメッセージを伝えさせたのです。自分たちの国へもうすぐ帰れますよという喜びのメッセージです。もちろん帰れるといっても、建物やそこにあったものは全部壊されているから再び自分たちの国を作らなければならない。自分たちの国へ戻って自分たちの国を再建することができますよと。しかしその再建にあたって自分たちのなかに恨む気持ちや復讐心があると、神様を喜ばすことにはならないと言われています。なぜなら人に復讐する人は、いずれ神様に復讐されるからです。神様は民に回心を求めておられるのです。そして、この復讐したい気持ちは現代社会の私たちにも共通するものかもしれません。しかしながらやはり神は現代の私たちにも回心するように呼び掛けておられるのです。

     第二朗読で読まれたパウロの手紙は、獄中書簡と呼ばれるものです。パウロはイエスのおしえを人々に宣教したことで迫害を受けて牢屋に入れられているのです。牢屋の中のパウロの気持ちは二つあったのではないでしょうか。

     一つ目は、「もうすぐ自分は殺される、殺されたら自分にとって素晴らしい。なぜなら、死んだらすぐに天国へまっすぐに行くことになるから。」

     もう一つは、「もしも自分が死んでしまったら、信徒たちにとっては良くない。なぜなら彼らを信仰の道へ正しく導くことができなくなるから。もう一度頑張って信徒たちの元に戻り、彼らを正しい道に導きたい。」と信徒の心配をして、彼らを導けるように願ったことでしょう。このパウロの気持ちは司牧者に求められる気持ちそのものです。司牧者は、神様から任せられた人々のことまで考えなければならないのです。司牧者はつねに、神様から託された多くの人々のためを思い、力を尽くしているのです。

     福音書では、ぶどう園の主人と労働者のたとえ話が語られています。主人は神様、ぶどう園ではたらく労働者は私たちを表しています。ぶどう園で早くに行って労働した人と、終わるころに行って短い時間だけ労働した人、この場合の報酬が同じだとおかしいでしょうか。今日のたとえ話では、早くから働いていた人が後から来た人と同じ報酬を受け取ったときに、主人に文句を言います。しかし、主人は「友よ、あなたに不当なことはしていない。わたしはこの最後のものにも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」とやさしく諭します。

     これは「救い」、つまり「永遠のいのち」についての約束の話です。神様はすべての人におなじようにチャンスを与えておられます。神様は人を救いたい、だからたえず人々を救いに招いてくださいます。信者は、うまれてすぐ洗礼を受けて信者になった人もいれば、死ぬ直前に洗礼を受けて信者になる人もいます。信者になった時間の長さを理由に区別されることがあるでしょうか。神様がお恵みを与えられる際に、信者となった時間の長さは問題とされません。チャンスはいつでも与えられていて、死ぬ直前でも回心すれば救われます。私たちは神様の招きにこたえれば救われます。招きにこたえなければ救われません。神様のお恵みによって私たちが招きにこたえるように歩みましょう。

    ◆トピックス

     9月20日は祖父母と高齢者のための世界祈願日です。姫路教会でも敬老の祝福がありました。日頃から教会に来られている方、日頃は諸事情によりご無沙汰だけど招待をうけて久しぶりに来られた方など、お顔ぶれは様々ですが、たくさんの高齢者が参加されました。懐かしい仲間たちとミサに与る喜びはおおきなお恵みだと思います。教会学校の子どもたちからはミサの中で、歌のプレゼント(曲は、「ごらんよ空のとり」と「希望の巡礼者」)もありました。小学生から高校生まで年齢も幅広い子供たちが祭壇の前にずらりと並び、大きな声で元気に歌を歌いましたし、フロアの高齢者も一緒に歌い、とっても明るい歌のプレゼントになりました。ミサ後、サロングロリアで敬老のお茶会が設けられ談笑のひとときがありました。

    ◆感想

     若い頃、聖書を読んでもよく呑み込めなかったのが今日の福音のようなところでした。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」この締めくくりの言葉も全然理解できませんでした。今では人生経験を積み、このような逆説をやっと理解できるようになった気がします。若い頃は、正当に努力や苦労が報われないのは不公平だという思いのほうが強かったですし、自分自身を「先にいる者」に重ね見て、ひどく損をする感覚を覚えていまいたが、人生においては「後にいる者」を味わうこともあったおかげか段々自分の視点の高さや深さも変わったようです。

    ◆週報より

    ・10月はロザリオの月です。10月中のごミサの前に、皆で一緒にロザリオの祈りをおささげします。9:15スタートです。