
◆第一朗読 エゼキエルの預言 エゼキエル33.7-9
◆第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ13.8-10
◆福音朗読 マタイによる福音 マタイ18.15-20
◆ジョニー神父様のお説教
今日も祭壇には平和祈願で奉納した信徒と教会学校の子どもたちがメッセージを書いた平和のポスターが貼られています。片付けようとされましたが、わたいがせめて9月いっぱいはこちらに貼ったままにしてほしいとお願いしました。なぜなら今月日曜日に語られるみ言葉は、子どもたちが書いたメッセージと同じ内容になっています。ぜひまだ子供たちが書いたメッセージをお読みになっていないかたは、読んでください。今日もみなさんはどのようなメッセージをもって帰られるでしょうか。
第一朗読から見ていきましょう。聖書と典礼の下の段が解説になっています。エゼキエルという預言者の使命は「民を断罪することではなく、民を回心させ、新しく生まれ変わらせること」と書いてあります。断罪することではなく、です。
神様には一つの計画がありまた。人の救い、人間の救いです。神様は人間からの協力も求めておられます。人間は、人間だから病気になります。病気になれば人間は神に癒してほしいと祈ります。神は医者を通して人間を元気にして癒します。火事になれば消防士を通して鎮火します。同じように、人間を救うために神は預言者を選んで神の代理者として語らせます。しかし、この預言者の仕事は簡単ではありません。聖書にはやさしい、人に受け入れられやすい言葉もありますが、反対に人の耳に痛い、きびいしい言葉もあります。みことばがきびしい言葉の場合、説教も厳しいことになります。そうなると、預言者はどうなるでしょうか。この教会でも同じことが起こります。ジョニー神父がきびしい説教をすると共同体で悪口を言われます。しかし、預言者は、神に命じられて宣教をしているのでたとえ悪口を言われようとも自分の役割を忘れてはならないのです。人を救うなら、その人たちに悪口を言われてもその人が神の掟に背くことになったとき責任を問われることになるのはわたしです。そして、みなさんは預言者というのはジョニー神父のことだけだと思っていませんか。思い出していただきたいのは、預言者という役割は神父だけではないということです。洗礼式に臨席する機会があれば聞いたことがあると思いますがもし忘れたなら来月仁豊野教会で行われる堅信式へ行ってみてください。洗礼を受けるということは、「大祭司、預言者、司祭のために加えられて・・・」と唱えられるくだりがあります。洗礼を受けた人はみな預言者と同じ役割を持っているのです。あなた方みなさまは、兄弟姉妹の見守り役、見張り役として仲間が神の道から離れたり危ない道を歩んでいる時には危険だよと注意してあげなければいけないのです。もしあなたが仲間を見て危険な道を歩んでいると感じたのにもかかわらず注意をしないで見過ごしてして、仲間が死んでしまったらあなたに罪悪感が残ってしまいます。この心境は親が子供に対して感じる罪悪感と同じでしょう。聖書の話は昔話でも、単なる物語でもない。現在のキリスト者に課せられている仕事が何であるかを示している指南です。あなた方も使命に従って行いなさい。
第二朗読では、キリストの生き方を説いています。キリスト者であれば、互いに愛し合うのは義務です。キリスト者はそれが生き方でなければなりません。日本人の私という狭い立場で教会に来てはいけません。ベトナム人の私という狭い立場でもいけません。教会に来る以上キリスト者の立場で来ているのです。パウロが説いているのは「相互の愛」。日本人的感覚でいうなら、「give and take」というとわかりやすいかもしれません。十戒にも「隣人を自分のように愛しなさい」と書いてあります。隣人とは誰のことでしょうか。それは、家族、仕事場の仲間、学校の人、この共同体の人など、あなたを必要とする人はあなたにとっての隣人です。
友達になるのは無理だという人がいるかもしれません。隣人というのは友達にならなければならないというわけではありません。隣人とは、損害を与えてはいけない人という意味です。隣人には悪事をはたらいたり、傷つけたり、損害を与えてはいけません。愛することと友達になることは別のことです。友達になれなくても、隣人にはなれます。
第二、第三朗読では、「皆さん」と呼びかけられます。マタイによる福音では、イエスは「兄弟」と呼び掛けています。この兄弟ということばを聞くと、わたしは阿倍野教会を思い出します。阿倍野教会の子どもたちが、兄弟たちと飛びかけたとき、ママが一緒でないから兄弟ではないと正直に思うことを言ってくれたのです(笑)。「皆さん」というのは知らない人に呼びかける言葉です。兄弟というのは、血縁がある人に限る話ではないのです。同じ信仰をもってつながっている人は兄弟です。

主の祈りでは、「天におられる私たちの父よ」と唱えます。従って私たちは兄弟姉妹です。大家族で兄弟が多い場合には摩擦もあるかもしれません。アフリカではたいてい大家族ですから経験があります。私はアフリカで育ったので、そのバックグラウンドをもったまま日本人と接するときには知らず知らずのうちに迷惑をかけているかもしれません。大家族で摩擦が起きると、時にケンカがおきることもあるでしょう。ケンカ自体は悪いことでないです。しかし、ケンカした後は仲直りしないといけません。ケンカしたあとは、うわさや陰口をするのではなく、直接相手のところへ出向いて行って仲直りをすることが大切です。しかし、わたしはアフリカやフィリピン、カナダではそのやり方が通用していると思いますがここ日本ではちょっと難しいかもしれないとも思っています。そんなとき、教会には主任司祭がいます。評議会があります。だれかとケンカをした、うまくいかないときは主任司祭や評議会に言ってくださってよろしいと思います。

ケンカをした後、どうしたらいいか。難しいでしょうか?あくまでキリスト者としてどう行動するかを心にとめてください。そうすれば難しくても、無理ではないと思います。愛をもって祈りをささげると神様は祈りを聞いてくださいます。もしもずっと恨みを持ったままになっていたら、祈りにならない。そのときの祈りは聞き入れられない。なぜなら人を許さないままお祈りをしても、それはただの暗誦文になってしまうからです。
◆トピックス
今日は第一日曜日なので、子どもミサでした。第一朗読は男子中学生、答唱詩編はインドネシアからの留学生、第二朗読は男子小学生、共同祈願は小学生と中学生からそれぞれ捧げられました。オルガンは女子中学生でした。侍者は定番のベテラン侍者二人に加えて初めてという女子中学生も加わり、子供ミサがパワーアップしたように感じました。
9月20日(日)のミサでは10時のミサのなかで敬老の祝福が行われます。教会学校の子どもたちから歌のプレゼントもあります。
◆感想
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18.20より)は人生の大部分で素通りしてきたけど、ある時期、にわかにこの言葉の意味深さに気が付いた感覚がありました。神様と一対一の関係でつながりながら、同じ信仰を持つ仲間といればそこには神様がより豊かに働いてくださるということでしょうか。励まされる言葉です。