
◆第一朗読 エレミヤの預言 エレミヤ20.10-13
◆第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ5.12-15
◆福音朗読 マタイによる福音 マタイ」10.26-33

◆ジョニー神父様のお説教
今日はいつもよりも人が少ないように感じますが、サッカーの試合が行われることと関係あるでしょうか(本日はFIFAワールドカップ2026・グループステージ第二戦日本対チュニジア)。さて、皆様にお聞きしたいことがあります。皆様はミサの中で、説教をお聞きになりますが、どんな説教を聞きたいと思っておられるのでしょうか。説教に何を期待しておられるのでしょうか。まさか、説教が厳しくて嫌になって教会に来なくなるとか、自分が気に入っている優しい神父がミサを担当する時だけ教会に来たいとか思う人はいないでしょうか。
逆の立場で、もし皆様が司祭であったら、ご自分は信徒の期待に応えることができるでしょうか?多くの人が司祭になりたくないと思う理由は信徒によるプレッシャーが原因ではないでしょうか。先日大阪高松教区の司牧者の集まりがありました。その集まりの中で私は驚いたことがあります。教区司祭ではないある日本人司祭がこう言ったのです。「私が日曜日に一番よろこびを感じる瞬間は、ミサの後、信徒の皆様を見送って、教会のドアを閉めたときです。」と。これはどういうことでしょうか。信徒の皆様には、このことを心にとめてもらいたいです。
第一朗読の話ですが、エレミヤは主の言葉を忠実に伝えたゆえに迫害にあうことになりました。彼は厳しい説教をして、人々の思惑通りのことを言わなかったから、人々から悪だくみを受け迫害されたのです。エレミヤが迫害を受けたのは旧約時代の話ですが、現在においては迫害とまでは言わないまでも、信徒が厳しいことは司祭職にとってプレッシャーになると言わざるをえない。信徒の期待に応えることは簡単ではない。先ほどの日本人司祭の言葉を思い出してください。召命が少ない日本においては、特に日本人司祭に対して彼らが恐れをなしてしまうようなことにならないように、できるだけ親切に優しく接して、協力する気持ちを表すことが良いのではないでしょうか。
説教とは神様のみことばをお話しすることです。説教の時にはワールドカップやみ言葉と関係がない話をすることはふさわしくないでしょう。司祭がみ言葉を解説して、信徒の皆様がみ言葉を理解できるようにたすけ、これからを生きるようにするために説教があります。
第二朗読ではアダムと神が比べられている。アダムによってこの世に罪が入り、死ぬことになった。しかしイエスキリストが救いをもたらされた。イエスはアダムよりもずっと強い方です。強力です。私たちはイエスキリストによって救われるのです。イエスキリストに対する信仰が大事です。神様を前にして、信じるというだけでは足りません。信じるという言葉だけではなく、その信仰を表すことが大事なのです。信者であることは恥ずかしいことではないはずです。以前、長崎のかくれキリシタンの話をしたことがあります。彼らは信仰を守るためにかくれていたのであって、その信仰はかくれていません。反対に皆様の場合は、信仰することに自由があるにもかかわらず、その信仰は隠されているようにみえます。二か月前、台湾に行きました。台湾のレストランでは、あるカトリック信者が食前の祈りをしっかりと唱えていたのです。驚きました。日本では、食前にいただきますと言います。しかしそれはお祈りとは別のものですから、食前の祈りとは言えないでしょう。信者であれば、食前の祈りをすることが求められます。信者であることを隠す必要はない。恥ずかしいことではない。皆様はどうして信者になったのでしょうか。どうして教会へ行くのでしょうか。
いつか、神様の前で審判を受ける日が来ます。それまでに皆様はどんな選択をなさるでしょうか。イエスと同じ永遠の喜びに与りたいのか、そうでないのか。イエスキリストの招きにこたえましょう。おそれずにこたえましょう。皆様に勇気が与えられますように。
◆トピックス
今日は父の日の祝福がありました。父親たちが祭壇前に招かれて、祝福を授けていただきました。

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