投稿者: えのきりょう

  • 番外編 2026.02.07 えのきりょうの衆議院議員選挙に向けてのつぶやき

     大義がないまま衆議院が解散され、総選挙となりました。投開票を待たずして、自民党が過半数を大きく超える議席をとる勢いとの予測もあります。そうなったときには、高市総理は民意を得たとばかりにさらに暴走し、これまで以上にやりたい放題をすることになります。日本国憲法を改正し、日本を再び戦争をする国に変身させ、非核三原則はなかったものにされ、軍事産業にどんどんお金をつぎ込み、スパイ防止法も成立。結果として国民はますます貧乏になり、人生は金と戦争、裏切り者扱いされることへの恐怖に支配されることになります。神の国の実現に遠ざかる一方だと思います。

     そうならないためには、自民党と維新の党に議席を与えてはならないと思います。私は、自民・維新と反対の立場をとる政党の議席を増やしたいと思い今回の投票先を検討しています。明確に憲法を尊重し、戦争はいけないと明言しているのは、共産党、社民党、れいわ新選組くらいでしょうか。ここでも最悪なのが自民党で、高市総理は「国民はときには国のために命を投げ出して」と国家のために命を捨てることをあるべき姿として私たちにおねだりしています。とんでもないことだと私は思います。

     私の住む選挙区では今回自民、維新、国民民主、参政、共産が立候補しています。ここは何としても共産党に期待したいですが、予測によると話にならないくらい議席獲得は難しそうです。焦ります。

     焦りの果てに私は、今日は勇気を出して大石あき子氏の事務所が募集している選挙ボランティアに参加することにしました。ボランティアは主に「電話かけ」と「街宣 チラシ配り」の2種類あり、短い時間でしたが多くのことを考えたり感じることができました。

     「街宣 チラシ配り」は、スーパーの前でお買い物客に「大石あき子です。」と紹介しながらチラシを渡すのですが、たいていチラシは受け取ってもらえない、いやそうな顔をしながら断られるという対応が多く身がすくむ思いがしました。一方ではごくごく少数の方から「大石さんに入れるよ」とか「大丈夫。もう入れてきたよ」と声をかけていただき、こちらの緊張も緩みました。また、チラシを受け取りながら今の政治への怒りを語ってくださる方もあり、選挙ボランティア初体験の私にとってまさに未知との遭遇くらいに発見に満ちた1日でした。今回参加してみて初めて選挙ボランティアという方の存在と活動の実態を知ることになり、色々衝撃を受けました。常連ボランティアさんたちは交通費(本日の常連ボランティアさんの何人かは他県から新幹線で)はもちろんのことすべて自腹で駆けつけて、党を応援する熱い思いでもって寒空の中何時間も、塩対応にめげずにチラシを配り、しっかり大石あき子を紹介し、明るく感謝を述べるのです。選挙がいかにボランティアさんによって支えられているのかということがわかり、支持母体がある政党が選挙に強いことに納得がいきました。れいわは100パーセント草の根の支持者によるボランティアです。この少数精鋭の方々の活動を目の当たりにしたことが私にとって大きな刺激であり、学ばせていただいたことが収穫でした。

     夜は常連ボランティアさんにお願いして一緒に山本太郎氏の街頭演説を聞きにつれて行っていただきました。19:20~開始のところ、1時間前から聴衆が集まり始め、大阪駅御堂筋北口の一角は山本太郎氏を待つ人であふれ、登壇の際は大きな拍手で迎えられていました。

     初めて生で見た山本太郎氏の演説は、胸を打つものでした。

     正直で嘘や偽りはない、人間が人間として大切にされる社会を作りたいという当たり前の話でした。当たり前のことを言っているだけなのに胸に響くのは、この当たり前のことをほかの政治家が誰も言ってくれなかったから。山本太郎氏は40分間休む暇なく訴えかけ続け、聴衆からも熱のこもった掛け声が飛び、比例はれいわと約束して締めくくられました。ユーチューブで2026.02.07大阪駅街頭演説が見られると思うのでご参照くださいましたら幸いです。

     政治音痴の私でもここまで焦る、今回の選挙は相当危険な分岐点にあると思います。神様の教えにかなう生き方を実現できるためには、とにかく戦争を肯定しないこと。

     国民が平和を願い、その実現を祈るとき、神様の力が私たちに働いてみ心に適う結果へと導かれますように。アーメン。

     

  • 2026.02.01 心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである

    ◆第一朗読 ゼファニヤの預言 2.3,3.12-13

    ◆第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 コリント1.26-26-31

    ◆マタイによる福音 マタイ5.1-12

    ◆ジョニー神父様のお説教

     第一朗読では、イスラエルの民が罰としてアッシリアへ連れていかれたがその中でも苦しみに耐えた人たちは助けられたという場面が書いてある。苦しみに耐えた人たちとは「貧しい人たち」「へりくだる柔和な人たち」とも同じ意味です。なぜこの「貧しい人たち」は助かったのか?

     答えは、貧しい人たちは神様の言うことをきいたからです。

     第三朗読では、イエスは小高い丘に登って群衆を前にして、神様の教えを説かれた。この場面は「山上の説教」と呼ばれています。

     ここでイエスは最初に、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と話されました。人が幸せになるためには心の貧しい人になるようにしなさいと教えられたのです。この「心が貧しい」という表現には誤解がないようにすこし説明が必要かもしれません。「心が貧しい」という言葉は、心が豊かな人という意味の逆ではないのです。もともとはヘブライ語で、「自分の貧しさをしっている態度、心のありかた」という意味になります。

     一番豊かなのは神様です。それに比べて人間は完全な存在ではありません。足りないのです。そんな人間にとっての救いはどこからくるのでしょうか。

     救いはイエスキリストから来ます。救いはイエスのお恵みによるものなのです。

     お恵みとは、モノではありません。どんなにモノを持っていても自分が何のために生きているの分からなくて苦しんでいる人もいる。

     イエスは、私たちが神からお恵みをいただくためには神に忠実であるように、「心の貧しい人」でありなさいと教えてくださっています。私たちを救うのはモノや金や肩書ではない。そのようなものに心を支配されているならこの世でもあの世でも幸せにはならないということを神はいつも静かにずっと語りかけておられます。

     私たちは、生きていて苦しいことや悲しいことがあって悩むこともあるでしょう。その苦しみや悲しみの中でも神様に向かって祈り、前向きに生きるとき、私たちは自分が小さくて、神様を必要としている存在(=心が貧しい)であることに気づいてますます神様を求め、信じます。本当の幸せとは神様と向き合ってしっかりつながっていることなのです。

    ◆感想

     ジョニー神父様は先週日曜日から復帰されています。おかえりなさい。

     「心の貧しい人は幸いである」とは有名な聖句であり、昔からよく目にしました。しかし、「心の貧しい」という言葉に違和感があり、今一つ腑に落ちない聖句でもありました。心が貧しいというのは、心に余裕がないギスギスした状態の心を持つ人だと思っていたのです。

     今日のお説教で腑に落ちるところがありました。心の貧しい人というのは、自分の足りなさを自覚する謙虚な心をもつ人であり、その人は自分が救われるためには神の助けが必要であると自覚して、神により頼み祈る。そのように神に向き合う人は幸せになるということだと理解しました。

     お説教では心の貧しい人を中心にお話しされましたが、個人的には「平和を実現する人々は、幸いである」について神父様のお話を聞いてみたかったです。日本は今まさに2月8日の衆議院議員総選挙に向けて各党の選挙戦の真っただ中にあります。不戦の誓いや平和について真剣に語る政党があまりに少なく今回の選挙はこれまでにないレベルで心がざわざわするものになっています。カトリック教会はカルト集団ではありません。なので、幸いなことにカトリック教会は信者に対してどの政党に票を投じたらよいのか指南しません。そのことは至極当然のことで大切なことです。しかし、カトリック教会がどのようなスタンスや手法で正義と平和を実現させようとしているのか具体的なアクションが信者に見えていないとしたら、信仰生活と現実生活の乖離が生じてしまうことがあるのではないかと懸念します。たとえば、カトリック教会に熱心に通っているのに選挙では軍拡まっしぐらの政党に票をいれるみたいな・・・。もっといえば、およそカトリックの教えとは程遠いと思われる言説を述べる政治家がカトリック信者である例もあります。

     カトリック教会において、正義と平和をつくる取り組みの活動は個々の教会の考えや事情により活発だったりなかったりするのが現実で、多くの場合あまり関心が寄せられていない気がします。カトリック姫路教会の活動の実態はわたしが知らないだけで実は活発に活動がなされているかもしれません。この辺りも今後関心を持ってみていきたいです。

     私は、絶対に日本が同じ過ちを犯さないように、私たちの子どもや孫が戦場に送り出されることがないように願いながら、神様の教えに照らし合わせて考えながら一票を投じるつもりです。

    ◆トピックス

     2月11日(水)は世界病者の日です。病人がふさわしい援助が受けられるように、また苦しんでいる人が自らの苦しみの意味を受け止めていくための必要な助けを得られるように祈る日です。カトリック姫路教会では午後6時のミサで祈りがささげられます。望まれる方は「病者の塗油」を受けることができます。

  • 2026.01.18 見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ

    ◆第一朗読 イザヤの預言 イザヤ49.3,5-6

    ◆第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 1コリント1.1-3

    ◆第三朗読 ヨハネによる福音 ヨハネ1.29-34

    ◆ハルノコ神父様のお説教

     今日は子どもたちが前の席にたくさん座っているようにみえます。ミサの前はどんな話をしようかと考えていましたが、子どもたちがたくさんいるので今日は子どもたちに向けて話をしようと思います。子供たちといえば、今日は姫路教会の両隣にある賢明女子学院と淳心学院の中学入学試験です。さらに日本の高校生にとっては、昨日も今日も大学の共通テストの日でもあります。一生懸命頑張っている子どもたちに神様の力が働いて、良い道を歩めますようにお祈ります。

     今日の福音で登場するイエス様のお友達は誰でしょう?きっとみんな聞いたことがあると思います。それは・・・

     

     洗礼者ヨハネです。

     洗礼者ヨハネは人々に洗礼を授ける役割の人でした。洗礼を授けるときに必要なのはお水です。この水という言葉を聞いて、みんなは何を思い浮かべますか?毎日水を使いながら皆さんは何をしますか?・・・そうですね。大事な飲む水、お風呂の水、生きることに欠かせない、なくてはならないものです。私たちの命に不可欠な水の、別の顔は何でしょう。・・・そうです。津波とか洪水とか、こわいものです。命を奪うこともときにあり、東日本大震災の時も津波で多くの人々が亡くなりました。

     この水でヨハネは洗礼を授けますが、どうやって洗礼を行うのでしょうか。受洗者の頭にピュッと少量の水を振りかけるのか、それともジャーと大量の水を流すのでしょうか? 皆さんは自分たちの洗礼のことを当時は赤ちゃんだったので覚えていないかもしれないですが、大体今は額に水を少し流します。でも、イエス様の時代、洗礼はどこで行われていたでしょうか?川です。何という名前の川か知っていますか?・・・

     小学生の男の子:「ヨルダン川」

     そう、すごい。正解です。ヨルダン川です!

     ヨルダン川で洗礼者ヨハネは洗礼を行っていました。水泳をしたことがある子供たちはいますか?水に顔をつけられますか?顔を水に漬けたらどうなるでしょうか。

     イエスの時代の洗礼は、川の水に沈める形で行われるので顔は水の中に入って、息ができなくなりました。だから水から顔を出したときには大きな大きな呼吸をするので生まれ変わったような気持ちになりました。

     洗礼者ヨハネは、イエス様が洗礼を受けにやってくるのをみて「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである。」といいました。そして、イエス様のことを神の子と証して、素晴らしい人であると皆に伝えたのです。こうして洗礼者ヨハネはイエスさまのことを、つまり自分の友達のことをほめたたえました。お友達にこのような態度をとったのです。お友達は自分の友達のことは悪く言わず、大切にします。子どもたちも自分の友達のことは悪く言ったりひどい評判を与えたりしないでしょう。お友達のことを悪く言わないと約束できますか?大人たちにも同じことを問います。お友達のことを悪く言わないと約束してくださるでしょうか?おとなの皆様が約束をする姿を子供たちが見て、子どもたちもまたそれに倣うので、大人の皆様の姿勢を見てもらうことは子どもたちにとってもお手本や励ましになります。

     子どもたちも大人の皆さんもたくさん手を挙げてくれて、ありがとうございます。

    ◆感想

     先週に続く洗礼者ヨハネのお話でした。今日から教会学校の三学期が始まり、子どもたちがたくさんいるようにみえました。神父様は子どもたちがたくさん前のほうに座っているので子どもにわかりやすく話をしてくださいまいました。そして、神父様の問いかけに小学生の男の子が「ヨルダン川」とはっきり大きな声で答えていて、すがすがしかったです。この小学生の姿に励まされ、大人の信徒の反応もよくなり、リラックスした雰囲気で大切なポイントをおさえることができました。イエス様の時代の洗礼はヨルダン川で行われていたこと。川の水に沈められる形で洗礼を受けていたこと。深呼吸は本当に必然の深い息だったことなどを想像しました。そして、洗礼者ヨハネがイエスを神の子と証したことを思い起こしました。

     洗礼はやはりあらたな命を吹き込まれ、これまでとは違う自分になるということだと思いました。イエスを知るとこれまでとは同じ自分ではいられなくなるということ。この間からこのことについて何度も繰り返し聞かされている気がします。

    ◆トピックス

    朝7時のミサは、平日は1月27日(火)から、日曜日は2月1日(日)より再開されます。

  • 2026.01.11 主の洗礼 これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者

    ◆第一朗読 イザヤの預言 イザヤ42.1-4,6-7

    ◆第二朗読 使徒たちの宣教 使徒言行録10.34-38

    ◆第三朗読 マタイによる福音 マタイ3.13-17

    ◆ギャリー神父様の説教

     今日の福音では、洗礼者ヨハネがイエスに洗礼を授ける場面が描かれているが、少し疑問におもう人もいるかもしれない。なぜなら、洗礼者ヨハネは人々の罪を悔い改めさせるために洗礼をしていたので、罪がないイエスに対してまで悔い改めのための洗礼が必要なのかと不思議に思う人がいるかもしれない。実際、洗礼者ヨハネは、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところへ来られたのですか。」と言って、イエスが洗礼を受けられることを思いとどまらせようとしている。ところが、イエスは、「今は、止めないでほしい。正しいと思うことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」とおっしゃり、洗礼者ヨハネから洗礼を受けようとされた。

     洗礼者ヨハネはイエスにそういわれたので、結局言われる通りにイエスに洗礼を授けた。この洗礼者ヨハネの態度は、人間が自分の正しいと思うことを押し通すのではなく、神様の言われることを一番に優先させたということを表している。つまり、人間が思う正しさや考えかたを手放して、正しさや倫理観、考え方といった人間の物差しからいったん離れて、神様が言われることに従ったということ。人間がそのような反応をしたときにどんなことがわかるでしょうか。神様が言われる正しさというものが少しづつみえてくる。

     人間が思う正しさとは・・・

    人間の立場や規則を基準として考えられるものである。

     一方で神様が言われる正しさとは・・・

    人間との連帯、つながり、愛である。

    イエスは、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と言われた。イエスの言われる正しさの正体とは何か。それはつまり、愛の関係ではないでしょうか。イエスは人と同じ立場に立つことで、神であるのに人とされた。そのこと自体が神の計画である。そして人となられたイエスは人間との連帯でもって愛の関係を示された。

     イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けると、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえている。この声は私たちカトリック信者一人ひとりにも向けられている言葉です。イエスの言葉に倣うとき、私たちにもこの声が同じように語られていることになる。洗礼を受けて、イエスの生き方を受け継ぐことを選んだ私たちもまた自分自身の狭い枠を守るのではなく、その枠を少しでも広げてできる限り神様に連帯するように求められています。

    ◆感想

     主の洗礼の場面はこれまであまり深く掘り下げて考えることがなかったです。今日お説教を聞いてはじめて考えました。私が思うポイントは2個ありました。一つ目は、神でありながら人とされたイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けることにあらわされた神様からの深い愛。神はどこまでもへりくだりながら人間への愛を示しておられると思いました。

     二つ目は、洗礼者ヨハネがイエスに洗礼を授けるなどもったいないと常識的な考えを持ちながら、それにもかからず神の言われる通りに行動することで神の計画が実現したということ。人間のものさしからはなれて、自分の価値観や枠を取り払いながら神の招きにこたえることが私たちに求められているということ。その招きは愛の招きであり、連帯であり、人間が豊かに生きていくためのヒントが与えられていると思いました。

    ◆トピックス

     今年度カトリック姫路教会の典礼委員の取り組みとして、聖歌の練習が始まりました。ミサ開始前に10分程度聖歌の練習をしました。今日は、林裕美子先生(ソプラノ歌手)に閉祭の歌に指定されていた「ゆけ 地の果てまで」をご指導していただきました。ほんの数回先生の指導に従ってその通りにしただけで、驚くほど私たちの歌声がきれいでのびやかになりました。そして、閉祭で歌う時には気持ちよく歌うことができ解放感がありました。先生に言われたとおりにするだけで普段の自分を超える何かが出てくるとは不思議です。この場合、音痴だからとか、恥ずかしいからとかつまらないことに気を取られて遠慮してしまうことが常ですが、それにもかかわらずやってみることが大事です。なんだか今日のお説教のポイントと重なるところがあるとおもいました。歌の練習は今後も定期的に開催されます。

  • 2026.01.04 主の公現 主の栄光はあなたの上に輝く

    ◆第一朗読 イザヤの預言 イザヤ60.1-6

    ◆第二朗読 使徒パウロのエフェソの教会への手紙

    ◆第三朗読マタイによる福音 

    ◆ハルノコ神父様のお説教

     今日は新成人を祝福する日です。今日は3人の新成人が祝福を受けます。前席に座っている2人の女性と今日も侍者をしてくれている彼。東方の博士も三人でした。今日は成人になる3人のために話をしてみたいと思います。

     今日のポイントは3つです。ひとつめは・・・

    「星に導かれて」ということ。

    私たちは夜空を見上げて星を見ることを時々わすれている。でも、星に導かれて、イエス様のところにやってきた東方の博士たちのように星を見ることで、星に導かれて正しく道を進むことができることがある。この星は、神様のシンボルです。誰の心にも神様がいて、心配なことがあってもその星を見て自分が正しい道のりにいるか確認したり、星を目印に前へ進もうとすると、道を間違うことはない。新成人たちも、大人になって不安があっても大丈夫です。星を見て星に導かれていたら、つまり神様のことをみて、神様に従って、神様を目印にして歩んでいけばこわいものはない。

     二つ目のポイントは、

    同じ道を引き返すのではなく、別の道を歩んだこと。

    聖書には、星に導かれて幼子イエスのところにやってきた博士たちは、夢の中で「ヘロデのところへ帰るな」とお告げを受け、別の道を通って自分たちの国へ帰っていったと書いてある。イエスに会うともう今までと同じ生き方ができなくなる、回心するということ。

     三つめは、

    先日大阪から姫路にかえるときの新快速の中でヒントがあった。私がボックス席に座り、残りの席に男性2人と女性1人の3人組が座った。私がマスクをして小さくなって座っていたし、日本語がわからない外国人だと思っていたでしょう。仲が良い3人組は安心して遠慮なくおしゃべりしていたので、実は家庭の秘密を含め様々なことが聞こえていた。そのなかで印象に残ったのが、その中の一人の男性が、認知症を患っておられる義理のお母様をいろいろ手がかかって大変なのだけど家で20年間一緒に暮らしてお世話をして最後は介護もして、みとられたという話があった。他の二人からも良く頑張ったとねぎらわれていた。私もこの人はとても頑張ったと思った。

     大事なポイントは、自分を丸ごと家族のためにささげること。

    自分の命や苦労や時間を家族や人のためにささげることは神様に尊いささげものをすることと同じことである。東方の博士たちは危険を顧みず命を懸けてイエス様のところへやってきた。誰にでもできることではない。彼らは自分たちの命を神様にささげたことになる。新成人たちも毎日家族のために、誰かのために頑張ることは、毎日自分の大切なものを神様におささげしていることになる。大変かもしれないけど、新成人の皆さんにはこのことを頑張ってほしいと思います。もちろん、シスターになりたい、神父になりたい、教会のために働きたいという希望があっても大歓迎です。

    ◆感想

     3人の新成人は、ハルノコ神父様から祝福を授けてもらい、それぞれが、成人の誓いを唱えました。教会からのプレゼントも贈られました。 星を見て、導かれながら人生を歩んでくれるように願います。ともに祈ることができてよかったです。

  • 2026.01.01  マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた

    ◆第一朗読 民数記6.22-27

    ◆第二朗読 使徒パウロのガラテヤの教会への手紙 ガラテヤ4.4-7

    ◆第三朗読 ルカによる福音 ルカ2.16-21

    ◆ハルノコ神父様のお説教

     新年あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。昨夜はインドネシアからの学生たちと一緒に過ごした。紅白は見なかったけれど、お酒も飲んで楽しかった。そしてパーティを終えて、0時にはお祈りをしました。

     楽しく大晦日を過ごしたけれど、年が経つにつれて変化することもある。年賀状も昔に比べて少なくなるとか、出す相手がいなくなるとか、昔子どもだった信者が大きくなっているとか、かわいらしかった、今もかわいいけど髪に白髪が混じるようになったとか、人も変化する。そんな中で、感謝すべきことがあることはかわらない。感謝を忘れてはいけない。

     はたらいて、はたらいて、はたらいているのにお給料が増えないとか、がっかりすることもあるでしょう。それでもいいのです。マリア様は私たちのすべてを見てわかって、しずかに心におさめてくださっています。今日のルカの福音にも「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思いめぐらしていた」と書かれています。イエス様ご誕生の良いニュースを一番初めに告げられたのは、羊飼いたち。当時一番貧しくて虐げられていた人たちにこそ、一番初めに喜びが告げられたのです。

     私たちは人間だから間違いを犯すことがある。でも、許してあげて、許されて、私たちは新しい一歩を踏み出すことができる。キリスト者として神様の前で一つになって、結ばれて、神様に向かって心を合わせることができる。大晦日、元日、多くの人々がそれぞれの神様に向かって神社やお寺で手を合わせて祈る姿を目にすると、カトリック司祭として大きな喜びを感じる。そこには平和があるから。祈りから平和が始まるから、問題があっても、お金がなくても、大丈夫。不安はいつでもあるけど、マリア様のように明るい心で神様に祈る姿勢があればなにも問題はなくなる。

    ◆感想

     不安や問題があっても大丈夫。マリア様のように明るいこころと神様に祈る姿勢があれば問題ない。この言葉に年頭から励まされました。昨年は、特に自民党の政権が交代してから特に政治が悪い、政治家が悪い、社会がよくないほうに向かっていくと感じて不安になり、政治家への不満を募らせていました。

     戦争や社会の不安がなくならないことに対して、どこにどのような問題があるのかをしっかり考えて、その問題に対してキリスト者として声を上げる必要があれば上げるあたりまえの行動を後退させないようにしたいです。しかし、一方でその話題や思いにとらわれがちになってしまい、自分もこころもネガティブにとらわれてしまいがちです。今日ハルノコ神父様に、マリア様の心を説かれ、良い気付きがありました。ハルノコ神父様はいつも朗らかで温かく、神父様からもマリア様の心をいつも感じさせていただいています。私もマリアさまに倣うことができますように願います。

     新年の0時のミサはありませんでした。10時のミサは満席状態で祈りをささげました。1月1日は世界平和の日とされ、「信仰の原点に立ち戻り、すべての善意ある人々と手を携えて、平和な世界の実現に向かって、カトリック信者としての責任を果たしていく」ことが求められています。私は、絶対に日本が戦争しないように、戦争ができる国に向かわないように、自分にできることを考えるつもりです。