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  • 2026.07.12 ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで・・・

    ◆第一朗読 イザヤの預言 イザヤ55.10-11

    ◆第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ8.18-23

    ◆福音朗読 マタイによる福音 マタイ13.1-23

    ◆ギャリー神父様のお説教

     日本では海の日という海の恵みに感謝する日があります。カトリック教会でも7月の第二日曜日を「船員の日」と定めて、海にかかわる人たちのために祈りをささげています。

     今日の福音では種が出てきます。イエス様は種をまかれます。ある種は道端に落ちて鳥が食べてしまい、他の種は石だらけのところに落ちてすぐに芽を出したけれども枯れてしまい、他の種はいばらの間に落ちていばらにふさがれてしまった。他の種は良い土地に落ち、実を結んで、百倍、60倍、30倍になった。

     種をまくということは、神様の寛大ないつくしみを表しています。種は貴重で、大切なもので、無駄にすることはできないものです。そのたいせつな種を、つまり神様のお恵みを惜しまず、私たちに与えようとされます。私たちが準備できていなくても、私たちが完璧でなくても、あらゆる場所にいる人間のためにお恵みを注いでおられます。私たちは神様がお恵みを注がれていることを忘れないでいること、覚えていることが大事ではないでしょうか。

     神様はしばしば海にたとえられます。海は人間の日常生活を支え命のもとになる自然の恵みを与えてくれます。そんな海ですが、船員にとって海の上の生活は時には孤立したものとなり、孤独な環境で働くことを意味するかもしれません。そんな海で働く人の苦労のおかげで私たちの生活が成り立っていることも忘れてはいけないことでしょう。口にするもの、身に着けるもののおよそ9割が海を渡ってやってくることを考えればすべてのものに感謝することが大切です。厳しい環境に出向いて行って仕事をしてくれた人のおかげで私たちは海の恵みをいただくことができます。だから海でとれた魚をいただくときに、感謝することは当然でしょう。しかし、私たちは忙しいとき、その忙しさはまるでたとえ話で出てきたいばらのように私たちを邪魔するかもしれません。つまり、忙しいと、漁師やそれに関係している人々に無関心であったり、感謝を忘れてしまったりするのです。私たちは海で働く人々に思いを馳せ、祈ることも時に必要です。教皇様もホルムズ海峡で足止めされた船舶の乗組員のためにお祈りをされました。私たちは自己中心に陥って、感謝することを忘れてしまうということがないようにしたいです。

     今日も神様からは希望を持つようにというメッセージを感じるところです。神様が私たちに豊かに注がれるもの、それはタラントです。いただいたタラントは自分のやり方で豊かにすることが求められています。感謝、おもいやり、祈り、の三つが重要です。感謝することを忘れないで、だれかを思いやる気持ちと余裕をもって、とにかく祈ることです。

     私たち一人一人は小さな働きですが、正義と平和が全世界の人にあるように、豊かなお恵みを願ってみんなでお祈りしましょう。

     ◆トピックス

    今日は林裕美子先生によるミサ前の歌の練習会がありました。そのおかげでミサ中の歌声はやはりのびやかできれいでした。先生に感謝。

    ◆週報より

    日本カトリック平和旬間(8月6日から15日まで)

    1981年 教皇ヨハネ・パウロ二世は広島で「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである。」と述べられました。戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく、具体的な行動でなければなりません。 

  • 2026.07.05 見よ、あなたの王が来る。高ぶることなく、ろばに乗って来る

    ◆第一朗読 ゼカリヤの預言 ゼカリヤ9.9-10

    ◆第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ8.9,11-13

    ◆福音朗読 マタイによる福音 マタイ11.25-30

    ◆ジョニー神父様のお説教

     今日の朗読された三つの箇所は、すべてつながっています。三つに共通するテーマは「謙遜」「謙虚」「へりくだり」です。そのことがテーマであることをまず覚えておきましょう。

     第一朗読はこれから起こることになることを予言したものです。これから起こる救い主の到来について話しています。王という言葉になっていますが、これは救い主イエスキリストを表しています。王は、救い主イエスなのです。人間的な権力の象徴の王ではなく、神の力によりすがる、謙遜なものです。謙遜というのはどうしてでしょう。それは、その王は人々の上に立って人々を支配するのではなく、人々に寄り添い、仕え、ろばに乗って来られるからです。

     イエスは神の子ですから貧しくない、何でも持っておられるはずです。それなのにイエスはろばを選ばれたのです。イエスが王なら、私たちはその王が示す道だけを歩まなければなりません。

     来られる王が王国を持っていて、すべての人がこの王国に入るように招かれています。ただし、条件があります。それは、肉の支配下にいないで、霊の王に導かれる、つまり体の行いを選ばずにイエスに従って清い生活を行うことです。肉とは、体のことで、肉に従って生きるというのは具体的にどういうことなのかについては、ガラテア人への手紙5章19節に書いてあります。

     ガラテア人への手紙「 19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、 20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、 21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。 22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。 24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

    25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。 26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。」

     姦淫、好色、 偶像礼拝、ねたみ、争いそういった類のものを私たちはカトリック信者として断たなければならないのです。霊の結びつきによって生きているならその人は柔和で謙遜である必要があります。霊によって導かれているなら、罪の道から離れてイエスの示す道を歩むことになります。これは神の知恵です。

     この世でえらいとされる人は心の扉が閉じてしまっていることがあります。そのような人間的な価値でえらいとされる王のような人を私たち信者は模範にするのではないのです。私たちがモデルにして、倣おうとするべきなのはイエスキリストご自身です。イエスキリストは神でありながら、私たちと同じ人間として来てくださった柔和で謙遜な方です。

     神の知恵は地上の知恵とは違います。イエスキリストを信じる人には報いがあります。どんな報いでしょうか。

     それは安らぎ。安らぎとは心が安らいでいること、魂が安らいでいることです。私たちはその安らぎを得るために神様に祈り、そのお恵みが与えられるように願い求めましょう。

    ◆トピックス

     今日は第一日曜日なので、恒例の子供ミサでした。

    侍者:ベテラン侍者と男子中学生

    第一朗読:小学生男子

    答唱詩編:小学生女子3人組

    第二朗読:中学生女子

    共同祈願:小学生男子、小学生女子たち合計4名

    奉納:小学生 中学生 数名

    オルガン:中学生女子

    楽器:ギターと打楽器 社会人ギタリストたち

    入際の歌「アーメンハレルヤ」

    奉納「キリストと共に」

    拝領「神様といつもいっしょ」

    閉祭「主よあなたの道を」

    ◆感想

     今日はこどもたちの活躍がいつも以上に光っていました。答唱詩編を小学生が歌ったのは初めてではないでしょうか。あとでジョニー神父様からも褒められ、フロアの信者たちからも大きな拍手でねぎらわれていました。子供たちの頑張りは周りの大人にとっては不思議な作用があります。子供が頑張ってうまくやっていると、大人たちも安心して子どもたちの頑張りにこたえるかのように声が大きくなります。子供たちの頑張りに大人が励まされるあたたかいごミサでした。

  • 2026.06.28 わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る

    ◆第一朗読 列王記 列王記下4.8-11、14-16

    ◆第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ6.3-4,8-11

    ◆福音朗読 マタイによる福音 マタイ10.37-42

    ◆ギャリー神父様のお説教

     「自分の十字架を担ってわたしに従わないものは、わたしにふさわしくない。じぶんの命を得ようとするものは、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」とイエスは言われました。厳しい言葉のように聞こえるかもしれません。

     しかしこれは、土台が弱い家にしないための、私たちの土台を強くするための大事な教えとなるかもしれません。現代社会では社会のプレッシャーが私たちの十字架を重くしているかもしれません。イエスは、「わたしよりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない」と言われています。はたして私たちはキリストの弟子として生きるために、それほどまでの代償を払わなければならないのでしょうか?

     考えてみると、そこにものすごい価値があると認めたら、そのための代償の大きさは理解できることでしょう。大切な教えを成し遂げるためには家族や大切なものを代償として引き換えることもあるのです。キリストの弟子である私たちにとって、引き換えるものは、家族や大切な人というよりもむしろ今の自分そのまま、自分の生きかた全てということが求められているかもしれません。日本の現代社会では国民一人一人の幸せよりも国家としての美しさや姿が優先されていますがその奥には孤独を抱える人間が潜んでいることも事実でしょう。孤独な人、社会から引きこもらざるを得ない人、日本的な精神性のゆえに自分に我慢を強いてしまう人、私たちの知らないところにたくさんの苦しんでいる人がいます。私たちはそのような人の存在に触れたとき、「かわいそう」と思うし、同時に「これは行政になんとかしてもらわないと困る」と思うでしょう。そう思う気持も大事ですが、キリストの弟子として私たちに課せられていることは、「私にできることは何かないだろうか?」とその問題について社会に任せてしまう無関心ではなく、歩み寄って心を寄せ、手を差し伸べることでしょう。沈黙のなかで苦しむ人々に手を差し伸べることにキリスト者として大きな喜びがあるのです。なぜならこれがイエスが示された道であるからです。イエスがこのように生きるように招いてくださっているのです。私たちはカトリック信者としての道を歩むと約束しています。だから私たちが困難に陥ってもう駄目だという状況になったときにも神様の力が働いて思いがけない力が自分から湧き出るときがあります。

     安全で、無難な、慣れた場所にとどまっていれば神様の招きにこたえているとはいえないでしょう。神様の用意された招きにこたえていくとき、自分に神様のお恵みがはたらいて自分の信仰が強められることや与えられる力に驚き、神様の招きにこたえて生きることの素晴らしさを体験することになるかもしれません。

     日本ではカトリック信者は少数派です。その少数派である私たちがキリストを体現するために働くということは、生計を立てるために働くという意味とは違いますが、キリストの平和を映し出す存在であること、そのような生き方を表すことです。私たちが愛とめぐみのある場所を子供たちに示していくことは平和を作ることに通じることではないでしょうか。隣人に心のこもった挨拶をすることも平和を作る行為ではないでしょうか。心がこもった挨拶は、孤独を和らげる助けになります。有名なマザーテレサもこのように言っています。

     大切なのは、
     どれだけたくさんの
     ことをしたかではなく、

     どれだけ心を
     込めたかです。

    私たちが社会の中で弟子として神の愛を行うことができたら、社会は変わるでしょう。

    * マザー・テレサ(Mother Teresa/1910年-1997年/貧しい人のために働き続け、その生涯を愛に捧げたことで知られる修道女教育者平和運動家)

    ◆感想

     私たちは、キリスト者としてキリストのようになるようにと招かれ、キリストの弟子として生きることを求めらているとうことの具体的な意味を改めて考えさせられました。口先だけのキリスト者になってはいけないよと注意されているようにも聞こえます。口先だけのキリスト者であることを自分に許すということは、土台が弱いところに建物を建てようとして土台も建物も失ってしまう、つまり大事なことが何かを見誤ったまま生きると結局命や生き方は台無しになってしまうことになると理解しました。イエスが示された道を歩み、イエスの姿に倣おうとする生き方を選ぶとき、険しい道にあっても限りない恵みと励ましの力が私たちに与えられるということでしょう。その生き方は、すべてを捨てて神様についていった弟子たちの姿が象徴しています。私には弟子級の行いはできないまでも、キリストにつながっているものとしてできるレベルで愛の行いを示せたら良いとおもいました。その心をもって日々家族や仕事で出会う人に接することができたら小さな愛の行いが社会で連鎖して、愛とやさしさにあふれる社会になると思いました。その社会を想像すると、ジョン・レノンの曲「イマジン」が思い出されました♪

    ◆お知らせ 週報より

    ・姫路地区平和旬間・月間行事

    講演のテーマ「キリストの平和、フランシスコ聖人が教えた生き方」講師:シスター二コラ(聖フランシスコ病院修道女会)

    第一回 7月4日(土)10:00 仁豊野聖マリア病院聖堂にて

    第二回 7月11日(土)10:00 カトリック相生教会にて

    ・ジョニー神父様は不在中の6月30日から7月4日までの午前7時のミサはありません。7月1日(水)の午後6時(カレンガ神父様司式)のミサはあります。

    ・本日から堅信の勉強会が開講されました。講師はジョニー神父様です。対象者は小学6年以上で初聖体をうけている人です。該当者は教会事務所で申し込みしてください。

  • 2026.06.21 だれでも人々の前でわたしの仲間であると言い表す者は・・・

    ◆第一朗読 エレミヤの預言 エレミヤ20.10-13

    ◆第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ5.12-15

    ◆福音朗読 マタイによる福音 マタイ」10.26-33

    ◆ジョニー神父様のお説教

     今日はいつもよりも人が少ないように感じますが、サッカーの試合が行われることと関係あるでしょうか(本日はFIFAワールドカップ2026・グループステージ第二戦日本対チュニジア)。さて、皆様にお聞きしたいことがあります。皆様はミサの中で、説教をお聞きになりますが、どんな説教を聞きたいと思っておられるのでしょうか。説教に何を期待しておられるのでしょうか。まさか、説教が厳しくて嫌になって教会に来なくなるとか、自分が気に入っている優しい神父がミサを担当する時だけ教会に来たいとか思う人はいないでしょうか。

     逆の立場で、もし皆様が司祭であったら、ご自分は信徒の期待に応えることができるでしょうか?多くの人が司祭になりたくないと思う理由は信徒によるプレッシャーが原因ではないでしょうか。先日大阪高松教区の司牧者の集まりがありました。その集まりの中で私は驚いたことがあります。教区司祭ではないある日本人司祭がこう言ったのです。「私が日曜日に一番よろこびを感じる瞬間は、ミサの後、信徒の皆様を見送って、教会のドアを閉めたときです。」と。これはどういうことでしょうか。信徒の皆様には、このことを心にとめてもらいたいです。

     第一朗読の話ですが、エレミヤは主の言葉を忠実に伝えたゆえに迫害にあうことになりました。彼は厳しい説教をして、人々の思惑通りのことを言わなかったから、人々から悪だくみを受け迫害されたのです。エレミヤが迫害を受けたのは旧約時代の話ですが、現在においては迫害とまでは言わないまでも、信徒が厳しいことは司祭職にとってプレッシャーになると言わざるをえない。信徒の期待に応えることは簡単ではない。先ほどの日本人司祭の言葉を思い出してください。召命が少ない日本においては、特に日本人司祭に対して彼らが恐れをなしてしまうようなことにならないように、できるだけ親切に優しく接して、協力する気持ちを表すことが良いのではないでしょうか。

     説教とは神様のみことばをお話しすることです。説教の時にはワールドカップやみ言葉と関係がない話をすることはふさわしくないでしょう。司祭がみ言葉を解説して、信徒の皆様がみ言葉を理解できるようにたすけ、これからを生きるようにするために説教があります。

     第二朗読ではアダムと神が比べられている。アダムによってこの世に罪が入り、死ぬことになった。しかしイエスキリストが救いをもたらされた。イエスはアダムよりもずっと強い方です。強力です。私たちはイエスキリストによって救われるのです。イエスキリストに対する信仰が大事です。神様を前にして、信じるというだけでは足りません。信じるという言葉だけではなく、その信仰を表すことが大事なのです。信者であることは恥ずかしいことではないはずです。以前、長崎のかくれキリシタンの話をしたことがあります。彼らは信仰を守るためにかくれていたのであって、その信仰はかくれていません。反対に皆様の場合は、信仰することに自由があるにもかかわらず、その信仰は隠されているようにみえます。二か月前、台湾に行きました。台湾のレストランでは、あるカトリック信者が食前の祈りをしっかりと唱えていたのです。驚きました。日本では、食前にいただきますと言います。しかしそれはお祈りとは別のものですから、食前の祈りとは言えないでしょう。信者であれば、食前の祈りをすることが求められます。信者であることを隠す必要はない。恥ずかしいことではない。皆様はどうして信者になったのでしょうか。どうして教会へ行くのでしょうか。

     いつか、神様の前で審判を受ける日が来ます。それまでに皆様はどんな選択をなさるでしょうか。イエスと同じ永遠の喜びに与りたいのか、そうでないのか。イエスキリストの招きにこたえましょう。おそれずにこたえましょう。皆様に勇気が与えられますように。

    ◆トピックス

    今日は父の日の祝福がありました。父親たちが祭壇前に招かれて、祝福を授けていただきました。

  • 2026.06.15 巡礼記~秋田県湯沢台 聖体奉仕会にあるマリア様像~

    「秋田のマリア様」は秋田県秋田市の湯沢台にある聖体奉仕会修道院にある木彫りのマリア様のご像です。1975年そのマリア様の目から涙が流れるという奇跡があらわされました。その後101回も涙を流されたことが確認されています。マリア様の目から涙が流れるだけではなく、手のひらから血が噴き出たこともあり、その涙と血は大学病院で鑑定されいずれも人の体液と血液であると証明されています。

       *写真撮影はできないため、写真は拝借したものです。

     私も幼いころからこのマリア様像の存在は母から聞かされておりましたが、秋田県がとにかく兵庫県からは遠いですので実際にお目にかかることができる日が来るとは思ってもいませんでした。今回ひょんなことから巡礼が実現し、神様の計らいを感じます。

     車で秋田県内を移動し、いよいよ郊外山奥の修道会に至る道へ進んだとき、それまで雲一つない晴天であったのに急に雲行きが怪しくなり、みるみるうちに大粒の雨が降り始めました。突然の天候の変化でした(あとになって記録的短時間降水警報が発令されていたと知りました)。大雨の中、車を走らせ続け、聖体奉仕会のこじんまりとした修道院に到着しました。マリア様のご像はその修道院のすぐ横にある大きな日本建築の聖堂な中におられます。扉を引いて中に入ると、明るい声の快活な女性が出迎えてくださいました。

     大きな聖堂ですが、わたしのほかに巡礼客は2人ほど、外国からの巡礼者がおられるのみでした。ご像の前には椅子が並べておいてあり、すぐ近くでお祈りができるようになっています。静謐で特殊な空間でゆっくりお祈りすることができました。あとで先ほど出迎えてくださった女性の方に話を伺うと、巡礼客は海外からの団体客も多く、今日のように人が少ない日は珍しく、雨の影響もあるでしょうということでした。聖堂の外には広大なマリア小羊の苑(祈りと黙想のために作られ、十字架の道行きがあります)とマリア庭園(聖母にささげる日本庭園としてご献木を生かして手作りされた回遊式庭園)があります。雨があがり、しっとりとした景色で聖地に共通する清らかであたたかい空気があふれていました。

     マリア像で特徴的なのは、マリア様が丸い地球の上に立っておられることと、十字架の前に立っておられることです。聖体奉仕会修道院の解説文によると、「聖母が丸い地球の上に立っておられる姿は、聖母がキリストの母であるだけではなく全人類の母でもあることをあらわしています。また、十字架の前に立つ姿は、キリストがカルワリオで十字架につけられたとき、その下に立ち、御子の苦しみと死に、ご自分の信仰をもって神の救いの御業に心を合わせた方であることを表しています。」と書かれています。

     マリア様が涙を流された意味は、その奇跡を最も近くで目にし、多くの神秘的体験をされたシスター笹川の守護の天使によってこう解説されています。「聖母は、いつも、1人でも多くの人が改心して祈ることを求め、聖母を通じてイエズス様と御父にささげられる霊魂を望んで、涙を流しておられるのです。」

     なぜ秋田の地を選んで奇跡があらわされたのか、なぜ101回に及んだのか、その数にどんな意味があるのか、本に詳しく書かれていますが、知れば知るほど衝撃を受けます。

     

     聖体奉仕会修道院の聖堂を訪問するためには、あらかじめホームページに書かれている案内を読み、訪問予定の旨をお伝えしたうえで行くことになります。

  • 2026.06.07 キリストの聖体 わたしが与えるパンとは、・・・

    ◆第一朗読 申命記 申命記8.2-3,14-16

    ◆第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 1コリント10.16-17

    ◆福音朗読 ヨハネによる福音 ヨハネ6.51-58

    ◆ジョニー神父様のお説教

     今日は9人のこどもたちが初聖体を受けます。これから子供たちに向かって話をしますが、ミサが終わってからも今日のことを親、代父母、信徒みなさまからも子供たちに何度でも聞かせてあげてほしいと思います。教会学校のリーダーたちはここまでやってきてくれてお疲れ様です。しかし、いつも言いますが、子供たちにとって十分な量の勉強ではないと思います。こどもたちは今日が卒業というのではなくて、これからが本番というつもりでいてほしいです。

     すでに初聖体をいただいておられる信徒のみなさんは、自分たちの初聖体を思い出してください。どんな初聖体だったでしょうか。私は、1986年6月8日アフリカのコンゴ人民共和国で初聖体を受けました。明日でちょうど40年を迎えることになります。妹と一緒に、他にも100人の子供がいました。初聖体を受けることは大きな喜びでした。日曜日のミサでしたがそれよりも前の金曜日の夜から教会に泊まってみんなで祈り、歌い、踊り喜びを分かち合いながら初聖体を迎え、その日には多くの未信者の方々も参加してくれました。みんなから、町中のどこでも祝福されて町全体がお祝いムードに包まれていました。大きな大きな喜びの日でした。日本ではこのような喜びの表し方をしない、文化の違いがあることは理解しますが、どうしてもよろこびよりも苦しそうに見えてしまうのです。子供たち喜んでいるでしょうか。(子供たち一同笑顔)

     イエスは、パンをわたしの肉、ぶどう酒をわたしの血と呼んでいる。肉と血ときいてこわいですか?

     安心してください。こわいことではないです。イエスは人間なのですが、神の子なのです。初聖体は秘跡です。秘跡というのはしるし。しるしというのは神様のはたらきを目に見える形でうつすものです。イエスの体をうつすもの、それがご聖体です。(おおきな風月堂のゴーフルほどの大きさのパンを手にもって子供たちに示しながら)このパンをキリストの御からだと呼んでいる。(ミサ用ぶどう酒の入ったボトルを手にもって示しながら)これをキリストのおん血と呼んでいます。このパンは今この状態ではただのパンです。食べたい人は誰でも食べることができます。ところがミサの中でこのパンがこどもたちによって奉納され、司祭が祭壇の上でパンを聖霊をよんで祝別すると意味と中身が変わるのです。不思議です。神秘的に、パンとぶどう酒が御からだとおん血に変わります。口に入れても人間肉の味がすることはないですが、このパンがキリストの御からだに変わるのです。秘跡、しるしです。こどもたちはこわがらずにミサに与って、ご聖体を受けてください。イエスは私たちの体に入ってきたら私たちを変えます。いい人になるように、いい仲間になるようにはたらきかけてくださいます。

     ご聖体の大きさは問題ではありません。大切なことはその中身です。この中にイエスがいると信じてください。信仰をもっていただいてください。

     ご聖体のいただき方には二通りあります。口で直接受けるやり方と、手で受けて口に入れるやり方です。ご聖体はたとえかけらになっても意味と中身は変わらず、イエスはその中におられます。だからミサの最中にご聖体が足りなくなることがあった場合には、ご聖体を割ってたくさんの人にいきわたるようにすることもできます。もしも手にかけらになったご聖体が残ったときは、それはイエスの体ですから払い落とさずにきれいに舌でなめていただいてください。

     子どもたちはイエスの体をいただくときには、神様と関係ない話をしてはいけません。イエスを自分の中に迎えるのですから、姿勢を正していただきましょう。わからないことは遠慮なく神父に聞いてください。お父さんやお母さん、代父母にきいてもいいですよ。

     大人たちは、再出発しましょう。イエスに合わせて、イエスとひとつになりましょう。聖体は一致の秘跡です。同じ場所でミサに与り同じ話を聞いているのに心がバラバラなんてことがないように、そうならないように祈りながら、自分たちがもっともっと成長することができるように願いながら、祈り続けましょう。

    ◆初聖体の秘跡

     9人のこどもたち(小学3年生から6年生の男の子6人と女の子3人)が初聖体を受けました。朗読と共同祈願は子供たちが一人一役奉仕しました。

    <ご聖体をいただく前の祈り>

    イエス様、私たちに命のパンをお与えください。イエス様を私たちの心の糧としてお与えください。イエス様、あなたの命は、死んでも生きる命です。その永遠の命を、私たちにお与えください。イエス様、私たちの心にきてください。そして、私たちの心を清め、悪に負けない強い子供としてください。イエス様、いつも私たちと共にいてください。あーめん。

    <ご聖体拝領の後の祈り>

    神様、私たちに一番大切なイエス様をお与えくださり、ありがとうございます。私たちも、自分たちの一番大切なもの、心の愛をあなたにおささげします。

    イエス様どうぞ私たちの心をきれいにしてください。よくないことをしてしまった私たちを、どうぞお赦しください。

    イエス様、いつも私たちと共にいて、私たちの友達でいてください。お父さん、お母さん、家族みんな、そして教会の人たちを祝福してください。

    また世界中で困っている人、苦しんでいる人を助けてください。イエス様、私たちの祈りを聞き入れてください。アーメン。

    〇子どもたちから感謝の歌 オルガン:中学生女子

    聖歌「わたしのむね」

    わたしのむねに、きて頂戴な いつもなつかし イエズスさま

    しろいホスチア イエズス様 なつかしうれし いただきます♪

    〇侍者はエルベ神学生とベテラン侍者2名に加え中学生男子と中学生女子による奉仕でした。

    〇ミサ後、ピロティでカレーパーティが開かれ、みんなでお祝いしました。教会からはこどもたち一人一人にロザリオと壁掛け十字架のプレゼントが贈られました。スマイルちゃんも今日初聖体を受け、「初聖体はうれしかった。でも、これで終わりではなくてこれからだよと神父様に言われて、えー!って思った」と笑顔で感想を話してくれました。

    ◆感想

     さて、自分の初聖体を思い出してと言われて浮かんできたのは初聖体のろうそくでした。今日のこどもたちも神父様から手渡され、炎を見つめていました。きっとこんなふうに受け取ったのかなと想像しながら初聖体の秘跡を再体験できました。折に触れ、機会をつかまえながら、教会共同体の一員としてこのこどもたちに今日の日のことを語り続けたいと思いました。

     今日は朝から雨が降り始め、パーティ中も降り続きました。夕方に雨が上がり、虹が出ました。神様がしるしを通して私たちに励ましを送ってくださっている気がしました。

    一日降り続いた雨の後