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  • 2026.10.18 皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい

    ◆第一朗読 イザヤの預言 イザヤ45.1,4-6

    ◆使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 テサロニケ1.1-5

    ◆マタイによる福音 マタイ22.15-21

    ◆ギャリー神父様のお説教

     今日の福音ではファリサイ派の人々がイエスを困らせよう、罠に陥れようというたくらみをもってイエスに質問しますが、イエスが見事にお答えになるという場面です。これは第一朗読と連なっていて、第一朗読では「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。」「わたしが主、ほかにはいない」とすべてが神からくるものであり神の計画の中にあることが書かれています。神さまは私たち人間が神様を信じて、神様のことを一番に思うことを大事に思っておられます。神様は私たちを大切にして愛してくださる方であり、イエスの見事な答えは、神様がどういう方かということをよく表していると思います。

     私たちは問題が起こったときに、正しいか正しくないかとう見方をして答えは一つしかないと決めつけてしまいがちです。だから自分を追い詰めてしまったり、相手を攻撃して争うことになります。

     今日の福音でイエスの姿を学ぶと私たちがどのうような生き方をすればよいのかがわかるでしょう。イエスの示された正義は、信仰の喜びをもって純粋に生きることです。「あなたがたはどんなときも信仰、希望、愛をあたらしくみつけていくのですよ」ということがイエスのおしえてくださった道なのです。

     たとえ、相手が自分を罠にかけておとしいれようとするときでも、相手に対して希望と愛をもってこたえ、神様を信頼しましょう。私たちは自分の力だけで対処しようとして、落ち込んでしまうことがあります。何か問題があるからと言って落ち込む必要はないのです。私たちが一人で悩んだり落ち込んだりしないためにこの共同体があります。共同体につながり、一緒に集まり、ともに神に感謝の祈りをささげ、解決を神に求め願うのです。一週間の始まりにも終わりにも、こうして祈りをささげることで私たち一人一人がその人の中に抱える問題も解決します。今朝もミサの前に集まった人たちがロザリオの祈りを唱えていました。祈りの中身は祈る人それぞれのものですが、それでもみんなが集まって祈ることに大きな意味があり、集まって祈るところに大きなめぐみが注がれ、大きな力になるのです。

     信仰、希望、愛が私たちに与えられた道です。今日の恵みに感謝しましょう。私たちは神様から大切なものをいただいて、今日ここにいます。私たちが神様からいただいた恵みを思い起こしましょう。そして、私たちは神様第一です。一番大切な神様を心の中で大切にしましょう。

    ◆感想

     信仰、希望、愛。私たちキリスト者が生きる道はそれでいいのだと勇気づけられるみことばでした。現代を生きるなかで、何が基準なのかグラグラしてしまうことがあります。経済的判断でもない、政治的判断でもない、空気を読むのでもなく、神さま第一主義で考えると道を外れないということですね。判断に迷うとき、神様のおしえを道しるべに針路をとればいいのだよと考えると悩み方もシンプルになります。

  • 2026.10.11 町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい

    ◆第一朗読 イザヤの預言(イザヤ25.6-10)

    ◆第二朗読 使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ4.12-14,19-20)

    ◆福音朗読 マタイによる福音(マタイ22.1-14または22.1-10)

    ◆神父様のお説教 (朝7時のミサはアフリカ出身の神父様がたててくださいました。紹介がなく、お名前がわかりません。大変申し訳ありません)

     神さまは私たちのために祝宴を用意してくださっています。神様の祝宴にはおいしいお料理が用意されているでしょうか。ある子供向けの勉強会の時に、1人のこどもからそのように聞かれたことがあります。その子どもは「もしも神様が用意された天国の祝宴においしい料理がないなら、ぼくは天国へ行きたくない」と言いました(笑)そのことがあってからいろいろ考えてみました。聖書全体を読むと、旧約聖書でも新約聖書でも神様のみもとではまた食卓を囲むということになっています。あの時の子どもに今だったら神の祝宴にはおいしいものが用意されていると伝えてあげられます。

     今日の三つの朗読と答唱詩編には神様の用意される祝宴が語られています。第一朗読では、イザヤは万能の主が用意される祝宴について壮大なビジョンを語っています。その祝宴に用意されるのは良い肉、おいしいぶどう酒など最良の食べものだけではありません。人類のすべての悲しみ・苦しみをおわらせる、死さえも取り払ってくださる、これこそ神さまが用意してくださる祝宴です。神の恵みが語られています。あなたのため、わたしのため、すべての人のためにこの祝宴が開けれるのです。すべての人ですから、どんな人でも、罪を犯した人も招かれています。

     第二朗読ではパウロは自分は豊かなときも、貧しい時も、飢えていた時も、泣いていた時も、満ち足りていた時もすべてを経験したと言います。「私を強めてくださる方のおかげで、わたしにはすべてが可能である。」と言っています。主を信頼していればなんでも満たされてなんでもできると言います。パウロは神の祝宴とは物理的なことではなく、神が心を満たしてくださる恵みであることを知っていました。キリストイエスによって必要を満たしてくださるのです。どれほど貧しくても、どれほど悲しくても、どれほど罪を犯しても、いかなることにも対処できるめぐみを受け取ることになるのです。

     福音書では神様が息子のための婚宴を開くのに、招かれたものがやって来ないという場面が描かれています。婚宴に招かれているのに、あるものは畑に出かけていき、あるものは商売に出かけ、あるものは使者をつかまえて殺してしまう。そんな話はまるで昔話のようですが、昔話ではありません。私は先日車で3時間かけてやっとのおもいで千葉の教会にミサのために行きましたが、そこにはごく少数の信徒が来ているのみでした。神様がいつも準備して、こんな遠いところにまで司祭を送り、祝福を与えようとしているのに、人々がそれを十分に受け取っていない、神様のまねきにこたえられていない。そのようなことを思い起こさせるお話だと思います。

     今日の三つの朗読はわたしたちに大きなメッセージを投げかけています。 「神はあなたの必要を満たしてくださっている。招かれたら心を整えて神の招きにこたえていきましょう。神はあなたのために祝宴を開き、あなたの必要を満たしてくださいます。」そしてわたしたちにこう問いかけています。

     みなさんは神の招きにこたえているでしょうか?心配や不安の中でも神の声を聴くことができるでしょうか。自分の不安で心がいっぱいで神の声を聴けなくなってはいないでしょうか。自分の都合ばかりを優先して神の祝宴に行く興味を失っていないでしょうか。

     「来なさい。あなたのために私は祝宴を用意しました。」と神はいつも準備してくださっています。神様は私たちの過去のことにとどまるのではなく、今と未来を良くするために呼びかけておられます。神様のおまねきにこたえることができるように、反省して、イエスキリストに心を向けて、こたえていきましょう。

    ◆感想

     「神の食卓に招かれたものは幸い」とミサの中でいつも司祭が言う通り、ミサは神様が用意してくださった祝宴なのだとあらためて思いました。でも、「用事があるから」「試験中だから」「ちょっと休みたいから」とか様々な理由でミサを素通りしてしまうことは大いにあることです。私も、ふりかえると、さしたる理由もないのに、躊躇することもなく無自覚にミサに行かない時期もありました。

     最近しばしば、同じ信仰で結ばれた人はみな、同じ神の国へ行くことに思いを馳せます。同じ信仰に結ばれた人々とつながり、神様に身をゆだねる限り、いつも一緒にいられるというイメージに安心、心の安寧を感じます。仮に家族であっても同じ信仰ではない場合は「町の大通りに出て、見かけたものはだれでも婚宴に連れて来なさい」という言葉通り、信仰の喜びを分かち合い、同じ信仰につながろうとはたらきかけることもキリスト者の大切な役割ということなのでしょう。

     今日のごミサをたててくださった神父様のお名前がお伝え出来なくて残念です。アフリカ出身の神父様で、日本語も大変堪能で、ゆっくり話してくださりわかりやすかったです。どんな人も招かれているというくだりに励まされました。神様の国は差別もないのです。

     

  • 2026.10.4 すべてを治める神よ、あなたの目を注いで、またこのぶどうの木を顧みてください

    ◆第一朗読 イザヤの預言 イザヤ5.1-7

    ◆第二朗読 使徒パウロのフィリピの教会への手紙 フィリピ4.6-9

    ◆福音朗読 マタイによる福音 マタイ21.33-43

    ◆ジョニー神父様のお説教

     今月のみ言葉はわかりにくいとおもわれるかもしれません。第一朗読でも福音書でも「ぶどう畑 農夫 ぶどう」と農業に関係する言葉が出てきます。情景を豊かにイメージされるかもしれません。日本の農業がさかんな地方、北海道ならこのような農園が簡単にイメージできるかもしれません。姫路でも今が旬でしょうか、いただいて食べたことがありますからぶどう園があるようです。アフリカではブドウは栽培されていません。コンゴではぶどうの木を見たことがないというひとがほとんどです。54の国々でなるアフリカのうち、モロッコなど一部ではぶどうが栽培されています。

     農夫やぶどう畑というのはあるものの比喩です。ぶどうという言葉で表されていることは何でしょう。「聖書と典礼」の下の欄には解説がありますからごらんください。「神を農夫に、イスラエルやユダをぶどう畑にたとえた」と書いてあります。神はイスラエルの民を愛されて、一番大事にされた。ぶどう畑のぶどうを丹精込めて世話をしたら、最高においしいぶどうができると期待したでしょう。ところが出来上がったものは酸っぱくてとても食べられないものだったので、神さまはがっかりして怒られた。そしてぶどう畑を壊してしまいます。このぶどうとはイスラエルの民が繰り返してきた悪と罪のことです。イスラエルの民は何度も罪をおかし、島流しの身になっていました。これで話が終わると昔ばなしで終わってしまいます。しかし、これは昔ばなしではなく、現代、今日、私たちに対して送られているメッセージなのです。姫路教会の信徒一人一人が神のぶどう畑にたとえられているのです。私たちひとりひとりが、神様のみこころに沿った生き方をして、善い行いをすることが良い実を実らせることになるのです。

     第二朗読では信仰と愛の業をおこなうことがすすめられています。方法は二つ。一つ目は、信仰の実を実らせるために祈りの中から神様のめぐみをいただくこと。祈りの頂点はミサですが、この頂点であるミサに一足飛ばしに到達して、そこで口先だけで祈りを唱えて終わってしまうことはないでしょうか。ミサは頂点ですが、頂点に至るまでには段階があるはずです。祈りはいろいろありますが、プロジェクターに書かれた文字を読むだけではいのりになりません。祈りを自分の言葉として口で唱えるように努力する必要があります。どんな祈りをしたらよいかと思われるでしょうか。その場合、まずは感謝の祈りです。私たち信者は自分の信仰の命を祈りの中からいただいています。自分の命は自分のものではありません。神様がはたらいてくださって私たちに与えられたものです。神様に感謝しましょう。先日、ドバイからイスラエルに向かう飛行機が大変なトラブルの発生により危うく墜落の危機にあった。しかし、乗客は全員無事に着陸することができたというニュースがありました。もしもジョニー神父がこの飛行機に乗っていて、無事に着陸するという体験をしたならばミサを何回も何回も立てます。神様に感謝するからです。

     どのように祈ったらよいのかについて、まず感謝ですが、その次は神様に自分にとって必要なことお願いごとをしてもいいです。例えば、自分の子どもが結婚をのぞんでいるので良い人と巡り合えますようにとか、自分のこともが大事な試験を受けますから無事に良い道が示されますようにとか。求めているものを言葉にして、それを神様にお願いすることができます。

     ロザリオの祈りのことはご存じでしょうか。わたしもいつも肌身はなさず持っています。2008年大阪では一万円もする高価なロザリオが売られていてまるでファッションのようになっているのを見たことがあります。ロザリオはファッションや飾りではなくて、お祈りの道具です。カトリック教会では5月と10月はロザリオの月と定められています。今日は10月ですから、ミサの前にロザリオの祈りをささげる集いがあったと思います。10人参加したということですが、自ら祈りたい人たちが集まって祈りをささげることはよいことです。祈りは自発的なものであれば負担になりません。逆に強制されると残念ながら祈らなくなるでしょう。この夏、7月に仁豊野で子供たちのキャンプがありました。そのときに素晴らしかったことは、ロザリオの祈りが行われて、先唱を子供たちが唱えたことでした。司祭が割り当てられてするのではなく、こどもたちがおこなった。こどもたち、素晴らしいです。子どもたちは大人たちを見て、大人たちから学んでいます。私たち大人がこの子供たちに示せる態度はどのようなものがふさわしいでしょうか。聖堂に集まってミサを待つ間、沈黙のうちに祈りをささげる姿はふさわしいでしょう。しかし、聖堂でおしゃべりに夢中になってしまうことはふさわしいでしょうか。一度自分の行いをチェックしましょう。祈りは祈れば祈るほど上手に唱えられるようになります。アヴェ・マリアの祈りも3回改変されたので戸惑う人や外国籍の人にとって日本語で唱えることが難しい場合もあるでしょう。何度も祈れば大丈夫になります。

     信仰と愛の業を行う方法の二つ目はパウロが模範を示しています。私たちキリスト者にとっての模範はイエスキリストです。イエスの示された神秘を思い起こしながら自分の行いをチェックしましょう。

     福音朗読では、農夫たちは神様からブドウ畑をかりたとされている。しもべとは預言者のことです。神様は何人も預言者を遣わされた。それなのに農夫たちはしもべを殺してしまった。最後に神様は一人息子を遣わされたが、農夫たちはその一人息子さえも殺してしまった。

     私たちはある意味、ブドウ畑を借りている農夫です。私たちのためにつかわされた司教、司祭、評議会メンバー、リーダーたちを私たちはどう扱っているでしょうか。神様の期待をできる限り裏切ることがないようにしましょう。

     

    ◆トピックス

     今日は第一日曜日なので、子供ミサでした。

    第一朗読:中学生女子 第二朗読:中学生男子 答唱詩編:小学生女子2人 共同祈願:中学生男子、小学生男子2名 侍者:男子中学生1名

     子どもたちの頑張りのおかげか、フロアからの歌声もよく響きとてもきれいなごミサでした。神父様もとてもきれいな歌でしたと感想を述べられていました。

    ◆感想

     今日は午後から酒井俊弘補佐司教様の司式による堅信式。姫路教会からは9名が堅信の秘跡に与ります。信仰を新たに強めた彼らの生きる道に確かな支えがあることを感謝します。これからも豊かにお恵みが注がれますように。おめでとうございます。

  • 2026.09.27 キリストは・・・、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした

    今日は「被造物を大切にする世界祈願日」のために捧げるごミサとなっており、通常の「聖書と典礼」を使ったミサではなく、聖書朗読も共同祈願も特別に用意されたものでした。

    ◆ジョニー神父様のお説教

     教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」をご存じでしょうか。今はもうお亡くなりになられましたが、前の教皇様であるフランシスコ教皇様によって2015年に発行された本の名前です。漫画のようなものなら手軽に読む方が多いでしょうが、この本ということになると手に取って読んだという人はそう多くないかもしれません。たとえ神父であっても、まだしっかりと読んだことがないという人もいるかもしれません。

     ラウダート・シという言葉は、古いイタリアの言葉でアシジの聖フランシスコの祈りである「太陽の賛歌」の冒頭の言葉「Laudato si’, mi Signore(わたしの主よ、あなたはたたえられますように)」に由来しています。アシジの聖フランシスコとフランシスコ教皇様は同じ名前がついていますが別の人です。しかし教皇フランシスコさまもアシジの聖フランシスコと同じように貧しい人のために祈る方でした。この地球は神様からいただいた人類共通の家としてみんなで大切にしましょうと話されています。環境が破壊されてその結果被害が発生するとき、最も被害を受けやすいのは貧しい人たちです。世界のなかで豊かな国とされる先進国の人が、遠いアフリカやアジアへ行って森の木を切って自分の国へおくることが現地の環境破壊を引き起こすのです。回勅「ラウダート・シ」で訴えられていることは自然を大切にしましょうということだけではなく、人間を大切にしましょうということです。環境を守るためにできることは、小さなことを挙げると、例えば食べ物を無駄にしないこと。水や電気を大切にすること。必要がない部屋の照明がつけっぱなしになっていることはないでしょうか。必要以上にモノを買わないこと。冷蔵庫の中にまだ食べ物があるのに買い物に行ってしまうことはないでしょうか。そして身近な人を大切にすることをも含みます。よくあることですが、私たちはしばしば人を無視しています。そのような人や物を粗末に扱うことをやめて、神様がおつくりになった自然界とそこに生きる動物や人間を大切にするようにしましょうというよびかけです。神様から呼びかけられているメッセージですから、私たちの使命であると言えます。

                 藤城清治さんの影絵「太陽の賛歌」

    共同祈願 

    ☆世界に広がる教会が、教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」で掲げられたインテグラル・エコロジーの精神を広めることができるよう導いてください。支援やいのちある他の被造物との調和を取り戻し、一人一人の尊厳が大切にされる世界を実現するための、力強いあかしとなることができますように。

    ☆世界の指導者のために祈ります。いま、かけがえのない地球とそこにあるあらゆるいのちが危機に瀕しています。地球環境の保全と平和の実現のために責任ある道を選択し、貧しい人や弱い人が希望をもって生きることができる世界のために力を尽くすことができますように

    ☆私たちの「共通の家」である地球をいただいたことに感謝して祈ります。いま、この地球ではあらゆる生態系が苦しみの叫びをあげています。私たちが生き方を改め、搾取ではなくつねに他者の必要に心を向け、あなたへの賛美と感謝を忘れずに生活することができますように

    ◆週報より

     10月4日(日)14:00 仁豊野教会(聖フランシスコ病院修道女会聖堂)において酒井俊弘補佐司教様の司式により姫路地区合同堅信式が行われます。

    ◆感想

     今日は「聖書と典礼」を使わず、聖書朗読も共同祈願も通常とは違いましたが会衆が唱える祈りなどはプロジェクターで大きく映し出されていました。

     被造物を大切にする世界祈願日ということですが、環境問題はいやでも考えさせられるテーマです。資源を大切にしたいと思えば思うほど、現実生活のなかでは資源の無駄(使い捨て・過剰消費)が目について理想との矛盾を感じています。卑近な例ですが、オフィスにいるとたった1日だけでもトイレの洗面所などで大量のペーパータオルが捨てられているのを目にします。ペーパータオルは貴重な資源から作られますが、安価であるゆえに問題なく大量に消費されるのです。大量にストックされ、人が手を洗って水分をふき取るとたちまち即ゴミとなり、ゴミを処理するためにもエネルギーが使われています。エネルギーだけではなく企業の投じる環境整備費も相当のものになります。ペーパータオルではなく各自がハンカチを持ち歩くようにしたら貴重な資源を無駄にすることも防げるしゴミの処分も不要になるし、企業のコストも削減できるのに・・・と考えます。しかしながらコロナ以後は「感染対策」が優先課題となり、清潔を保つためには使い捨てが標準とされているようです。でも・・・使い捨て習慣の加速を見るたびに、こんなことでいいのかなと胸がざわざわするのです。この現状に「環境と資源を大切にするために、使い捨ては必要最小限に限ります」という当たり前と言えば当たり前の声を上げられたらうれしいのですが。物価高騰の日々ですから近い将来、ペーパータオルも値上がりするでしょう。そうなると「感染対策」「清潔」よりも「経済」が優先され、ペーパータオルは設置されなくなるような予感がします。

     お金が高くつくから使い捨て習慣が維持できませんという流れではなく、環境を守るために使い捨てはしませんと言える文化を歓迎したいです。共同祈願の祈りを共有できることは素晴らしいことですが、私たちには具体的な行動を伴うようにと招かれているのです。「もったいない」という感覚はラウダート・シの世界観ととても共通していると思います。

     アシジの聖フランシスコといえば、神様の被造物をこよなく愛した聖人です。空の小鳥たちにお説教を聞かせたり、人々を困らせていたオオカミと話をして対立を和解へ導いたり、おとぎ話のような美しいお話が数多く残されています。この本でもお話と影絵がたくさん見ることができます。

  • 2026.09.20 主を訪ね求めよ、見いだしうるときに

    ◆第一朗読 イザヤの預言 イザヤ55.6-9

    ◆第二朗読 使徒パウロのフィリピの教会への手紙 フィリピ1.20-24,27

    ◆福音朗読 マタイによる福音 マタイ20.1-16

    ◆ジョニー神父様のお説教

     今日も皆様はどのようなメッセージをお持ち帰りになるのでしょうか。第一朗読から見ていきたいと思います。

     第一朗読は、バビロンに島流しになっている民への希望のメッセージです。故郷を離れて島ながしの苦労にあい、希望を失っている民に対して、神様は憐れみ深い方なのでイザヤを派遣して希望のメッセージを伝えさせたのです。自分たちの国へもうすぐ帰れますよという喜びのメッセージです。もちろん帰れるといっても、建物やそこにあったものは全部壊されているから再び自分たちの国を作らなければならない。自分たちの国へ戻って自分たちの国を再建することができますよと。しかしその再建にあたって自分たちのなかに恨む気持ちや復讐心があると、神様を喜ばすことにはならないと言われています。なぜなら人に復讐する人は、いずれ神様に復讐されるからです。神様は民に回心を求めておられるのです。そして、この復讐したい気持ちは現代社会の私たちにも共通するものかもしれません。しかしながらやはり神は現代の私たちにも回心するように呼び掛けておられるのです。

     第二朗読で読まれたパウロの手紙は、獄中書簡と呼ばれるものです。パウロはイエスのおしえを人々に宣教したことで迫害を受けて牢屋に入れられているのです。牢屋の中のパウロの気持ちは二つあったのではないでしょうか。

     一つ目は、「もうすぐ自分は殺される、殺されたら自分にとって素晴らしい。なぜなら、死んだらすぐに天国へまっすぐに行くことになるから。」

     もう一つは、「もしも自分が死んでしまったら、信徒たちにとっては良くない。なぜなら彼らを信仰の道へ正しく導くことができなくなるから。もう一度頑張って信徒たちの元に戻り、彼らを正しい道に導きたい。」と信徒の心配をして、彼らを導けるように願ったことでしょう。このパウロの気持ちは司牧者に求められる気持ちそのものです。司牧者は、神様から任せられた人々のことまで考えなければならないのです。司牧者はつねに、神様から託された多くの人々のためを思い、力を尽くしているのです。

     福音書では、ぶどう園の主人と労働者のたとえ話が語られています。主人は神様、ぶどう園ではたらく労働者は私たちを表しています。ぶどう園で早くに行って労働した人と、終わるころに行って短い時間だけ労働した人、この場合の報酬が同じだとおかしいでしょうか。今日のたとえ話では、早くから働いていた人が後から来た人と同じ報酬を受け取ったときに、主人に文句を言います。しかし、主人は「友よ、あなたに不当なことはしていない。わたしはこの最後のものにも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」とやさしく諭します。

     これは「救い」、つまり「永遠のいのち」についての約束の話です。神様はすべての人におなじようにチャンスを与えておられます。神様は人を救いたい、だからたえず人々を救いに招いてくださいます。信者は、うまれてすぐ洗礼を受けて信者になった人もいれば、死ぬ直前に洗礼を受けて信者になる人もいます。信者になった時間の長さを理由に区別されることがあるでしょうか。神様がお恵みを与えられる際に、信者となった時間の長さは問題とされません。チャンスはいつでも与えられていて、死ぬ直前でも回心すれば救われます。私たちは神様の招きにこたえれば救われます。招きにこたえなければ救われません。神様のお恵みによって私たちが招きにこたえるように歩みましょう。

    ◆トピックス

     9月20日は祖父母と高齢者のための世界祈願日です。姫路教会でも敬老の祝福がありました。日頃から教会に来られている方、日頃は諸事情によりご無沙汰だけど招待をうけて久しぶりに来られた方など、お顔ぶれは様々ですが、たくさんの高齢者が参加されました。懐かしい仲間たちとミサに与る喜びはおおきなお恵みだと思います。教会学校の子どもたちからはミサの中で、歌のプレゼント(曲は、「ごらんよ空のとり」と「希望の巡礼者」)もありました。小学生から高校生まで年齢も幅広い子供たちが祭壇の前にずらりと並び、大きな声で元気に歌を歌いましたし、フロアの高齢者も一緒に歌い、とっても明るい歌のプレゼントになりました。ミサ後、サロングロリアで敬老のお茶会が設けられ談笑のひとときがありました。

    ◆感想

     若い頃、聖書を読んでもよく呑み込めなかったのが今日の福音のようなところでした。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」この締めくくりの言葉も全然理解できませんでした。今では人生経験を積み、このような逆説をやっと理解できるようになった気がします。若い頃は、正当に努力や苦労が報われないのは不公平だという思いのほうが強かったですし、自分自身を「先にいる者」に重ね見て、ひどく損をする感覚を覚えていまいたが、人生においては「後にいる者」を味わうこともあったおかげか段々自分の視点の高さや深さも変わったようです。

    ◆週報より

    ・10月はロザリオの月です。10月中のごミサの前に、皆で一緒にロザリオの祈りをおささげします。9:15スタートです。

  • 2026.09.06 二人三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる

    ◆第一朗読 エゼキエルの預言 エゼキエル33.7-9

    ◆第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ13.8-10

    ◆福音朗読 マタイによる福音 マタイ18.15-20

    ◆ジョニー神父様のお説教

     今日も祭壇には平和祈願で奉納した信徒と教会学校の子どもたちがメッセージを書いた平和のポスターが貼られています。片付けようとされましたが、わたいがせめて9月いっぱいはこちらに貼ったままにしてほしいとお願いしました。なぜなら今月日曜日に語られるみ言葉は、子どもたちが書いたメッセージと同じ内容になっています。ぜひまだ子供たちが書いたメッセージをお読みになっていないかたは、読んでください。今日もみなさんはどのようなメッセージをもって帰られるでしょうか。

     第一朗読から見ていきましょう。聖書と典礼の下の段が解説になっています。エゼキエルという預言者の使命は「民を断罪することではなく、民を回心させ、新しく生まれ変わらせること」と書いてあります。断罪することではなく、です。

     神様には一つの計画がありまた。人の救い、人間の救いです。神様は人間からの協力も求めておられます。人間は、人間だから病気になります。病気になれば人間は神に癒してほしいと祈ります。神は医者を通して人間を元気にして癒します。火事になれば消防士を通して鎮火します。同じように、人間を救うために神は預言者を選んで神の代理者として語らせます。しかし、この預言者の仕事は簡単ではありません。聖書にはやさしい、人に受け入れられやすい言葉もありますが、反対に人の耳に痛い、きびいしい言葉もあります。みことばがきびしい言葉の場合、説教も厳しいことになります。そうなると、預言者はどうなるでしょうか。この教会でも同じことが起こります。ジョニー神父がきびしい説教をすると共同体で悪口を言われます。しかし、預言者は、神に命じられて宣教をしているのでたとえ悪口を言われようとも自分の役割を忘れてはならないのです。人を救うなら、その人たちに悪口を言われてもその人が神の掟に背くことになったとき責任を問われることになるのはわたしです。そして、みなさんは預言者というのはジョニー神父のことだけだと思っていませんか。思い出していただきたいのは、預言者という役割は神父だけではないということです。洗礼式に臨席する機会があれば聞いたことがあると思いますがもし忘れたなら来月仁豊野教会で行われる堅信式へ行ってみてください。洗礼を受けるということは、「大祭司、預言者、司祭のために加えられて・・・」と唱えられるくだりがあります。洗礼を受けた人はみな預言者と同じ役割を持っているのです。あなた方みなさまは、兄弟姉妹の見守り役、見張り役として仲間が神の道から離れたり危ない道を歩んでいる時には危険だよと注意してあげなければいけないのです。もしあなたが仲間を見て危険な道を歩んでいると感じたのにもかかわらず注意をしないで見過ごしてして、仲間が死んでしまったらあなたに罪悪感が残ってしまいます。この心境は親が子供に対して感じる罪悪感と同じでしょう。聖書の話は昔話でも、単なる物語でもない。現在のキリスト者に課せられている仕事が何であるかを示している指南です。あなた方も使命に従って行いなさい。

     第二朗読では、キリストの生き方を説いています。キリスト者であれば、互いに愛し合うのは義務です。キリスト者はそれが生き方でなければなりません。日本人の私という狭い立場で教会に来てはいけません。ベトナム人の私という狭い立場でもいけません。教会に来る以上キリスト者の立場で来ているのです。パウロが説いているのは「相互の愛」。日本人的感覚でいうなら、「give and take」というとわかりやすいかもしれません。十戒にも「隣人を自分のように愛しなさい」と書いてあります。隣人とは誰のことでしょうか。それは、家族、仕事場の仲間、学校の人、この共同体の人など、あなたを必要とする人はあなたにとっての隣人です。

     友達になるのは無理だという人がいるかもしれません。隣人というのは友達にならなければならないというわけではありません。隣人とは、損害を与えてはいけない人という意味です。隣人には悪事をはたらいたり、傷つけたり、損害を与えてはいけません。愛することと友達になることは別のことです。友達になれなくても、隣人にはなれます。

     第二、第三朗読では、「皆さん」と呼びかけられます。マタイによる福音では、イエスは「兄弟」と呼び掛けています。この兄弟ということばを聞くと、わたしは阿倍野教会を思い出します。阿倍野教会の子どもたちが、兄弟たちと飛びかけたとき、ママが一緒でないから兄弟ではないと正直に思うことを言ってくれたのです(笑)。「皆さん」というのは知らない人に呼びかける言葉です。兄弟というのは、血縁がある人に限る話ではないのです。同じ信仰をもってつながっている人は兄弟です。

     主の祈りでは、「天におられる私たちの父よ」と唱えます。従って私たちは兄弟姉妹です。大家族で兄弟が多い場合には摩擦もあるかもしれません。アフリカではたいてい大家族ですから経験があります。私はアフリカで育ったので、そのバックグラウンドをもったまま日本人と接するときには知らず知らずのうちに迷惑をかけているかもしれません。大家族で摩擦が起きると、時にケンカがおきることもあるでしょう。ケンカ自体は悪いことでないです。しかし、ケンカした後は仲直りしないといけません。ケンカしたあとは、うわさや陰口をするのではなく、直接相手のところへ出向いて行って仲直りをすることが大切です。しかし、わたしはアフリカやフィリピン、カナダではそのやり方が通用していると思いますがここ日本ではちょっと難しいかもしれないとも思っています。そんなとき、教会には主任司祭がいます。評議会があります。だれかとケンカをした、うまくいかないときは主任司祭や評議会に言ってくださってよろしいと思います。

     ケンカをした後、どうしたらいいか。難しいでしょうか?あくまでキリスト者としてどう行動するかを心にとめてください。そうすれば難しくても、無理ではないと思います。愛をもって祈りをささげると神様は祈りを聞いてくださいます。もしもずっと恨みを持ったままになっていたら、祈りにならない。そのときの祈りは聞き入れられない。なぜなら人を許さないままお祈りをしても、それはただの暗誦文になってしまうからです。

    ◆トピックス

     今日は第一日曜日なので、子どもミサでした。第一朗読は男子中学生、答唱詩編はインドネシアからの留学生、第二朗読は男子小学生、共同祈願は小学生と中学生からそれぞれ捧げられました。オルガンは女子中学生でした。侍者は定番のベテラン侍者二人に加えて初めてという女子中学生も加わり、子供ミサがパワーアップしたように感じました。

     9月20日(日)のミサでは10時のミサのなかで敬老の祝福が行われます。教会学校の子どもたちから歌のプレゼントもあります。

    ◆感想 

    「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18.20より)は人生の大部分で素通りしてきたけど、ある時期、にわかにこの言葉の意味深さに気が付いた感覚がありました。神様と一対一の関係でつながりながら、同じ信仰を持つ仲間といればそこには神様がより豊かに働いてくださるということでしょうか。励まされる言葉です。