2025.6.22 キリストの聖体

メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来た

◆第一朗読 創世記 14.18-20

◆第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 11.23-26

◆第三朗読 ルカによる福音 ルカ9.11-17

◆神父様のお説教

 今日は一人の幼児洗礼と4人の初聖体があります。

ジョニー神父も39年前、12歳で初聖体を受けました。当時志願者は300人もいて、カテキズムを学び、初聖体前夜には教会に泊まって、初聖体を受ける喜びでとてもワクワクしていたことを思い出します。今日洗礼を受ける幼児も、初聖体を受ける小学生たちも今日の洗礼のことは全く記憶がないし、何もわからないまま洗礼を受けたことになる。そこで親たちと周りの大人たちの責任は重大である。なぜなら子どもは親と教会の信徒たちによって教育されることになるからです。アフリカには、子供はおなかの中にいるときは母親のもので、生まれると社会のみんなのものになるということわざがある。この子供たちを皆さんで育ててください。

 ご聖体になるパンは特に大きいものと、大きいものと、普段皆さんがいただくものくらいの大きさのものと3種類ある。今日は特別に大きな(風月堂のゴーフルくらいの大きさ)ものを用意しましたが、大きさにはあまり意味はない。大きいと祭壇から離れている人にも見えやすいというくらいのことです。このパンは大きさよりも意味が大切です。ミサの中で聖変化が起きてパンがご聖体になる、ぶどう酒がおん血になるというミステリー、信仰の神秘です。ミサで使われるぶどう酒には特別なルールがあり、普通のワインで代用した場合そのミサは厳密にいうと無効になる。ご聖体をいただき、おん血をいただくということは、私たちに信仰が求められる。洗礼の秘跡や初聖体の秘跡は生涯に一度きり受けることになるが、ご聖体をいただくことは何回も受けることができる。そのご聖体をいただくときは私たちは自分の心をチェックして、ご聖体をいただくのにふさわしい自分であるかということを確認する必要があります。日本で時々体験することに、長年教会から離れていてご聖体をいただくときの作法をすっかり忘れたひとが、葬儀ミサなどの機会にミサにあずかり拝領することがある。そのような場合はご聖体をいただくよりも祝福を受けるほうがよいかもしれない。ご聖体を受ける作法とは、利き手を反対の手のひらの下に重ねてご聖体を受け、利き手でもって口に運ぶか、もしくは司祭から直接口で受けるかどちらかの方法になる。ご聖体を口で直接受けることは信者の権利であり、守られない場合は信徒は異議を申し立てることができる。手で受けても口で受けてもいずれの場合も、司祭が「キリストの御からだ」と唱えるときに「アーメン」とはっきりと声に出し応答しなければならない。ご聖体をいただくのにふさわしい自分かどうかをチェックしてもしもまだ十分でないと思う場合は、ご聖体を拝領するよりも司祭の祝福を受けるにとどめることが賢明かもしれない。ベトナム人の信徒の中にそのカテキズムを忠実に守っている人を見かけることがある。心が整えばご聖体をいただくチャンスはまた次週あるので大丈夫です。

 初聖体を受ける子どもたちは、これから喜んでごミサに参加してご聖体を受けてください。いい子になるように、人を許してあげることができるように、神様の子供として生きられるようになりましょう。一致、平和、愛であるように、子供たちのためにも祈りましょう。

 教会学校のリーダーたちはよく頑張って指導してきました。その頑張りには感謝しますが、子供たちの信仰教育はそれだけでは全然足りないということも理解しておく必要がある。子供たちの本当の先生は親です。あとは親たちが頑張らなければならない。洗礼を受けたときのこと、初聖体を受けたときのことを折に触れて子供に話して聞かせたり、記念日として毎年思い出したり、親たちが子供たちを励まし、導いていけるように親たちのためにも祈りましょう。子供たちは今日という6月22日を覚えていてください。

◆感想

 初聖体をうける子供たちは緊張しながらも喜びに包まれていて、その姿は初々しく素敵でした。私たち大人が彼らに共同体の中ではぐくまれる喜びを感じさせることができるようにならねばならないと思いました。ジョニー神父様が言われる通り、将来彼らのうちの一人が姫路教会の代表になっているかもしれない。そんな未来を想像するとワクワクします。ごミサのあとお祝いのパーティがありました。信徒の有志が作ってくださったカレーをいただいて、とてもおいしかったです。

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