2026.10.25 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている

◆第一朗読 出エジプト記 出エジプト22.20-26

◆第二朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 1テサロニケ1.5-10

◆福音朗読 マタイによる福音 マタイ22.34-40

◆ガル神父様のお説教

 みなさんは今朝コーヒーを飲まれましたか?私はコーヒー、とりわけインドネシアのトラジャコーヒーをブラックでいただくのが大好きです。ブラックコーヒーは苦いです。でもその苦さを味わうことで本物のコーヒーを味わうことができると思います。今日はこのブラックコーヒーから福音を考えていこうと思います。聖書の朗読では二つ教えが説かれています。一つは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」ともう一つは、「隣人を自分のように愛しなさい。」というものです。

 この二つの教えはとても有名で、わたしたちもよく知っています。神様を愛することと隣人を愛することは切り離せないものです。愛というとき、私たちはときどき思い違いをすることがあります。私たちは、愛とは優しい気持ちであったり、うれしい気持ちであったり、そういった気持ちを愛と思ってしまうことがあります。しかし、気持ちというものは変わります。もしも愛が気持ちだということなら、気持ちが変わったら愛もなくなってしまうことになります。自分の家族のことを考えてみましょう。家族はいつも一緒にいると楽しいことばかりではないでしょう。互いに傷つくこともあるし、困らせられることもあります。でも、傷つけられても、困らされても、それでもそばにいっしょに居続けているところに本当の愛があります。そしてまた神様の愛というものがそこにあります。家族のことで悩んでいる人が解決を願って神に祈ったとしましょう。すぐに願いが叶うわけではありません。しかし、神様を信頼していれば、祈り続けることができます。私たちは思い込みをしたりします。本当に相手を愛するためには、自分の思い込みを捨てて、相手のために祈ることが大切です。本当の愛とは、ブラックコーヒーのようなものではないでしょうか。相手を大切にし続ける、同じ失敗をする人を何度でも許す、表には見えない小さな親切を表し続ける、それらはいつも楽しいことではありません。しかし、だからこそ、そこに本当の愛があるのです。

 第一朗読では、「寄留者や寡婦や孤児、貧しい人を苦しめてはならない」と弱い人々を大切にするように教えられました。優しい気持ちを持ちなさいということではないのです。気持ちではなく、具体的な行いを求められています。まずは自分を大切にしましょう。私を愛してくださる神様の愛を感じましょう。愛は心の中だけにとどまるものではありません。コーヒーもカップの中にあるだけではただの液体です。カップから流れ出て、誰かの口に入ることではじめてその意味をもつのです。具体的な行いといわれると、自分は年を取ったから何もできないと思う人がいるかもしれません。そんなことはありません。具体的な行いは難しいことを行う必要もないし、遠くで行う必要はないのです。すぐそばにいる家族に優しい声をかけることや、さみしいひとを訪問して言葉をかけるとか、そのような行いはどなたにでもできることではないでしょうか。ちょうどこれからご聖体をいただくことになりますが、イエスは自分の体を人々に与え、十字架の苦しみを通して私たちへの愛を示してくださいました。私たちの身近なところにも、ゆるすこと、そばにいてあげること、声をかけてあげること、そんな行動を待っている人がいないかと思い浮かべてみてください。今週はその人たちに具体的な行動を示して、愛をしめしてください。その行いは宣教活動になります。なぜなら、そのようにあなたがたに大切にされ、愛を示された人たちはその行為を通して神様に出会うからです。

◆感想

 <ブラックコーヒー>と<愛>、どちらも奥が深いものですが、組み合わせて考えたことはなかったです。今日はじめてブラックコーヒーは本当の愛と似ていると言われて、なんだかおしゃれな組み合わせだと思いました。そして、愛もコーヒーも逆説的な存在であるところが共通していると思いました。コーヒーの本質はその苦さにあるのですが、多くの場合その苦さゆえ砂糖やミルク、見た目や雰囲気等で本質を覆われものとなって人々に受け入れられます。でも本当はみんなその本質に触れたい、飲みたいとおもっています。愛も同じくです。甘い、楽しい、うれしいといったファッション性の高い雰囲気で覆われたものがまるで愛のようにうけいれられるけれど、本当の愛とは辛い、苦しい、逃げ出したいときでも、「にもかかわらず」そこにとどまる逆説の極みなのです。

 神様からの愛を知る私たちは本物の愛を知っています。そんな私たちには愛を示す具体的な行動がとれるはずです。それがキリスト者としての宣教活動ですよ優しく導かれた気がしました。

 ミサ後ある方が、「最近自分が考えていたことに答えがいただけたようなお説教が聞けてとてもよかった」と話してくださいました。み言葉をきいて、そのみ言葉が自分の心に届くのはその方にみことばを受け取る準備ができていたという事だと思います。悩み事があっても、神様にその悩み事をあずけながら祈るとき、神様はなやむ私によりそい、かならず答えてくださる。今日も、神様は私たちのことをすべてご存じで、絶妙な計画をもって私たちを導いていてくださるということを感じました。

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