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  • 2025.05.04 日曜日の教会 ジョニー神父様のお説教をきいて思うこと    ~ティベリウス湖畔の教訓と信者の道~

    2025年5月4日 日曜日 復活説第3主日

    イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちにご自身を現わされた(ヨハネ21.1)

    ◆第一朗読 使徒たちの宣教 使徒言行録5.27-32,40-41)

    ◆第二朗読 ヨハネの黙示録(黙示録5.11-14)

    ◆第三朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ21.1-19)

    ◆jny神父様お説教

     イエス様が復活した瞬間を見た人はいない。イエスの復活のあともイエスの教えは為政者によって禁止された。人に従うのではなく神様に従うことを宣言したものは殺されるがそのようななかでイエスの教えを広めようとした使徒たちがいた。

     日本でも長崎に伝えられたキリスト教がその後禁止され、信仰を口にすると殺される中で、信仰をまもり、親から子へ、孫へ伝えながら守り抜いた信徒たちがいた。その信徒たちはかくれキリシタンと呼ばれている。かれらの行為がなければ日本でキリスト教の教えが守り継がれることはなかった。

     しかしながら、かくれキリシタンという言葉は本当の意味ではかくれてはいない。むしろ現代において、かくれキリシタンという言葉は、キリスト者であることをあかししない、かくれているキリシタンという意味で私たちのことを表す言葉になっているのではないかと思う。教会の中で信仰を口にしても、教会から出るとその信仰は教会に置いたままにしてしまっていることはないでしょうか。信仰をかくしている、かくれキリシタンとなってしまっている。

     来年はℍ教会では洗礼志願者がいない予定になっているさみしい現実からもそのことが表れているようにおもう。新しく洗礼を受ける人が増えている国もある。韓国と比べてみても、日本はさみしい現状にある。

     

     第三朗読はティベリウス湖畔でまた弟子たちにご自身を現わされた場面。弟子たちはもともと漁師であったが、イエスと出会いイエスとともに活動していたがイエスが十字架につけられ亡くなられた絶望から、宣教できなくなり元の仕事にもどった。しかし魚とりのプロであるはずの彼らは一晩かけても全く魚を取ることができなかった。

     そんな弟子たちが岸に戻るとイエスが立っておられた。弟子たちがイエスだと気が付かないまま、食べ物があるかと問われて弟子たちがないと答えると、イエスは「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と教えられた。そこで弟子たちが言われたとおりにしたところ、魚が多くて引き上げられないほどであった。そのとき弟子たちはそれがイエスだと気が付いてあわてた。

     船に立っている弟子たちに対して、「右側に網を打ちなさい」ということはあなたが立っている舟の左から右側へ移動して移動しなさい、つまり今いる場所はだめですよ、移動しなさいということである。これはもう今までの仕事ではだめだよ、これからは神様の教えを広めて、魚ではなく人をすなどるものになりなさいというメッセージである。そして、イエスは弟子たちに確信を持たせるために魚をとって食事を準備してくださった。

     イエスが十字架につけられる前、捕らえられたとき、弟子たちはみな逃げてしまった。ペトロも逃げてから猫のようにかくれ忍ばせながらイエスのことを遠巻きにみていた。その姿を人に見られて、お前はイエスの弟子ではないかと問い詰められたときに三度もイエスを知らないといった。

     ここでは、そのペトロにイエスは「私を愛しているか」と三度同じ質問をした。ペトロは罪を犯したが、イエスはその罪を清めようとして三度同じ質問をし、ペトロが三度答えた。私を愛しているかという問いは、現代の私たちへのイエスからの問いかけでもある。当時の弟子たちはこのように答えたが、これは昔話ではなく、現代の私たちへの問いである。私を愛しているかと尋ねられている私たちは、どうこたえていくのでしょうか。

    ◆トピックス こどもミサなので、祭壇前に赤ちゃんから中学生の子供たちが集まり、jny神父様から祝福とお菓子のプレゼント。また来週は母の日なので母のために手紙を書いてくること、ミサは子供の奉仕でしてほしいとお話があり。

    ◆感想・気づき・つぶやき

    漁の場面は聖書の中で時々見かけるが、ここでは漁師だった弟子たちがイエスの死後打ちひしがれて、宣教をしなくなったので、元の職業であった漁師になって漁に出たという場面だということを知りました。魚はまったくとれなくて残念という非常にがっかりした感じがつよい場面。そこに現れたイエス様のことば、「右側に網を投げなさい」が、「今あなたが立っていることろは違うよ、別の場所に移動して」というのが空間的な移動をさし、さらにそれは単に実体が移動するというだけではなく、神様のいない生き方ではなく宣教する生き方に変わりなさいという示唆に富んだメッセージであるということを再発見できました。

    ペトロは初代教皇様でそこから267人目の教皇様がこれから選ばれるところ。時代がさかのぼってここにたどり着くと思うと時空をはるかに超えたつながりを再認識しました。

  • 2025.04.27 日曜日の教会 ジョニー神父様のお説教をきいて心に響いたこと         ~こどもたちにかみさまのことを耳から聞かせてあげるおとなになりたい~

    ジョニー神父様の愛のお説教です。今日もいいことを聞いてわくわくしました。忘れないように書いておきます。

    Jny神父様のお説教 要約

    ◆jny神父様お説教

     今日はいつくしみの主日となっている。この名前はヨハネ・パウロ二世教皇様がつけられたものである。先週フランシスコ教皇様がお亡くなりになられた。カトリック信者でない人たちからも愛される非常に人気がある教皇様であった。愛された理由は、二つある。一つ目は、あかしする方であったこと。もう一つは、しるしすなわち奇跡をおこなう教皇様であったことが挙げられる。

     あかしとは、弱い人や苦しんでいる人がいればそばに行って慰める、ともにいるという行い。私たちカトリック信者もあかしすることを求められている。キリストを知らない人たちも私たちのキリスト者としての行動をみてキリスト者のことを理解する。私たちはキリスト者としての行いでキリストをあかしをすることが求められている。疲れるときやすり減っているときもあるが、その時には例えばスマホが充電を必要とするように、キリスト者も教会で神様に出会い、また満たされて頑張る。信者の務めは教会にきてミサにあずかったらそれでおしまいではない。教会にきて神様から力をいただいたら、教会の外に出てからも自分たちの行いを通して神様を知らない人にも神様を伝えていくことが求められている。

     教皇様が行われた奇跡は、例えばフランスでは政治家たちは宗教を嫌い、信者がどんどん減っていった現実があるのに、洗礼を受ける人が増えたこと。信者の数は減っている。ℍ教会では来年洗礼を受ける人はいないことになっている。理由は、jny神父が休暇で数か月母国に帰国する間、代わりに勉強を教える人がいない。そのような状況では洗礼志願者たちを指導することができず、勉強が中途半端になっても困るので志願者を受け入れできない予定になっている。残念なことであるが、福音宣教チームがより積極的な宣教かつどうをしなければこの教会の未来はどうなるか?信徒は考えなければいけないでしょう。

     次の教皇様を選出することになる。フランシスコ教皇様のような考えを持つ教皇様が選ばれてほしい。聖霊の働きによってそのような教皇様が選ばれるように一人ひとりのお祈りをお願いしたい。

     ヨハネによる福音 トマスは復活したキリストが皆の前に現れたその場にいなかったので、主を見たというほかの弟子たちに対して「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」といった。イエスはトマスの間にも現れて信じないものではなく、信じるものになりなさいと諭された。それはトマスに対してだけではない、私たちに対してのメッセージでもある。

     神様は目に見えない。jny神父が奇跡をおこなうのを待っていても死ぬまでそれは見ることはできない。神様の言葉は見て信じるものではなく、言葉を耳から声で聞いて信じるものである。そのためには神様のことや神様のことを聞かせてくれる人の存在が必要である。jny神父に教会学校で初聖体まで勉強を教えてくれた人はシスターでも神父でもない、ひとりの聖職者ではない女性だった。その女性のことを帰国するたびにいつも探している。いつも元気でいてくれているかと気にしている。誰にとってもそのように神様のことを耳から聞かせてくれる人の存在が必要で、子供にとっては家庭で家族、親、兄弟、教会でも信徒たちから子供たちに語り聞かせてあげることが大切である。耳からきいたみ言葉が信仰の種となり、大切に育てればやがて芽を出し、育っていく。

    ◆気づき・感想・つぶやき

     フランシスコ教皇様が小さくされた人のそばに行って、慰め、励まされる行いはキリスト者の模範となっているが、そのように行動することを私たちも神様から励まされているのだと改めて気が付きました。

     信じようとしなかったトマスの姿は、私の姿に重なる。そんなトマスにイエス様はわざわざ現れてくださった。それはトマスを、私を愛してくださっているからだ。信じていいと導かれるということは大きなよりどころ、なぐさめに通じる。

     目で見ないと信じないのは現在の私たちもおなじである。目で見えるものは、金・快楽・肩書・権力に象徴されるこの世の欲ともいえる。神様は目に見えない、見えないけれど私たちを愛し、神様のやり方で働きかけてくださっている。目に見えるものを頼りにしすぎることなく、耳から聞く神様のみ言葉を信じることが大事である。大人たちが子供たちに語り掛け、言葉を聞かせてあげれば信仰の種が子供に植えられ、大切に育てればやがて芽を出し、育っていく。子供たちに語り続けることが大切であるらしい。なるほど、その通りだとおもう。おとなはあきらめず、こどもに語り掛けるべし。