投稿者: えのきりょう

  • 2025.12.7 エッサイの株からひとつの芽が萌いで・・・

    ◆第一朗読 イザヤ11.1-10

    ◆第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ15.4-9

    ◆第三朗読 マタイによる福音 マタイ3.7-12

    カレンガ神父様のお説教

     私は現在加古川教会に赴任しているが、以前姫路教会にいたことがあるので、ここでは卒業生の気分になる。さらに、今日は巡礼団で来られたシスターの中に神学生のころ阿倍野教会にいた時お世話になったシスターがいらっしゃるので、緊張します(笑)

     今日の福音書は、主の道を整えるようにというメッセージです。祭壇の前に馬小屋がすでに準備されているが、赤ちゃんはまだいない。この馬小屋は幼子を迎えることができるようにと教会共同体の信徒の皆さんが準備してくださったものであるが、うれしい気持ちで作ってくれたと思う。その気持ちが大切です。教会の外にはベトナム人の皆さんが馬小屋を作ってくれた。加古川教会でも同じく、教会の外側の馬小屋はベトナム人の信徒、中のホールはフィリピン人の信徒、聖堂の中は日本人の信徒というふうに民族が違っても調和して気持ちを一つに合わせて準備にあたっている。作っている時のうれしい気持ち、調和して準備する気持ち、喜んで作る気持ち、その気持ちが一番大事です。そして、そのこころを準備するということが今日のヨハネが言う準備と同じである。

     復活祭にも四旬節という準備期間があり、クリスマスにも待降節という期間がある。その期間は気持ちを整えるための準備期間として、許しの秘跡を受けてイエズス様をお迎えできるようにしなければいけない。準備をする待降節の準備はクリスマスの準備になる。

     今日の第一朗読では、「調和させることをミッションとしてもたらされる神さま」が描かれ第二朗読では調和するための具体的な方法とアドバイスが描かれている。

     イエズス様は調和をもたらすことをミッションとしておくられた。イエズス様に招かれている私たちにとって、そのミッションは私たちもミッションとも通じます。準備(調和)しましょう。

    ◆感想

     カレンガ神父様は姫路教会の主任司祭であられたので、実際今日も、結婚式を挙げた際お世話になった神父様だと話している夫婦がおられた。カレンガ神父様は驚異的な記憶力の持ち主なので、きっと彼らのことを覚えておられるだろう。

     準備するときの気持ちが大事という言葉が印象的でした。成果主義が横行する現代、結果に至るプロセスや人の気持ちの部分は省略される結果になりがちです。結果よりむしろプロセスが大事という当たり前のことをこの待降節に重ねて考えることはなかったですが、神父様の言葉に気づかされました。

     心を清くして、幼子をお迎えできるように準備をしましょうといわれました。ちょうど共同祈願では小学低学年の男の子がこう祈願していました。

     男の子 「待降節に入りました。僕たちは教会学校で神様のことを勉強しています。きれいな心で神様をお迎えできるように、神様たすけてください」 たどたどしい言葉でしたが、本当にその通りだなと思いました。

     今日の説教では、気持ちが大事ということと、調和が大事ということが心に残りました。調和、つまり「キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」の福音の言葉にある通り、お互いに受け入れあい仕えあうこと。忍耐が必要だけど、その我慢を神様におささげする気持ちで我慢して、目の前の人を大切にできたら平和が実現すると思いました。

    ◆その他

     本日の週報によると、ジョニー神父様は1月25日(日)のミサまでの間ご不在です。その間朝7時のミサはありません。12月9日(火)~13日(土)の平日ミサはありません。

     久しぶりにコンゴで夏休み休暇を過ごされたジョニー神父は11月日本に帰国されましたが、直後に妹さんとその後弟さんが相次いで他界されるという悲報に触れ、再び今後へ戻られました。私たち信徒にとっても大変悲しいことで、妹さんと弟さんのご冥福を心からお祈りすると同時に、心痛のさなかにあるジョニー神父様のためにお祈りします。

  • 2025.11.16 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい

    2025.11.16

    ◆第一朗読 マラキの預言 マラキ3.19-20

    ◆第二朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 テサロニケ3.7-12

    ◆第三朗読 ルカによる福音 ルカ21.5-19

    ◆ジョニー神父様の説教

    久しぶりです。(ジョニー神父様は故郷コンゴで休暇を過ごし、先週帰国されました。信徒にとっては今日は久しぶりのごミサです)

    毎年11月になると年末を迎える気分になって、終わりの時期、ということから終末論や世の終わりという話も耳にするようになる。今日の福音を理解したら、他のことは全部忘れてもいい。それくらい今日のみ言葉で語られていることは重要です。

    第一朗読のいうことは、つまり悪いことをしたひとは裁きを受けて地獄へ行く。善い行いをした人は天国へ行き、永遠の命を得るということ。み言葉をいただいたら、自分が自分に質問するとよい。それは良い行いか?悪い行いか?

    ある日裁判官がやってきたら、その結果を問われて地獄へいくか天国へ行くか決められることになる。だからいつも自分の行いに気を付けなければいけない。正しい道を歩めているか、回心しているか。地獄にはいきたくないでしょう。ただし、ある人は「天国でも地獄でも、大好きなお母さんやお父さんが地獄に行っているなら自分も地獄へいきたい」といった。それは注意しなければならない。子供たちにも伝えたい。教会に来るのは誰の意思なのか? 親が行きなさいというから来るのであればそれはただ教会に遊びに来ているだけになる。たとえ子どもであっても、自分の意思で、自分自身が救われたいから教会に来てミサにあずかるということが大切である。

    第二朗読では、世に中にこの世がもうすぐ終わるということでもうどうでもよくなって仕事を辞める人がいることに注意をしている。仕事を辞めてしまって、実際はこの世は終わらなかったからそのひとたちはお金が無くなって食べるものもなくなって、困って人々に助けを求めた。それは迷惑な行為です。パウロはテントを作る仕事をして、夜も昼も働いた。仕事と信仰を両立させていた。働きながら信仰生活をおくることは矛盾しない。

    パウロは終末論を誤解して怠惰な生活をおくる者には厳しい態度をしめしたが、誤解してはいけないことは現代社会の中に仕事をしないで助けを必要とする人が存在しているが、その人たちを助けるなということは言っていない。実際ジョニー神父はイタリアに滞在したとき、教会でたくさんの助けを求める人々をみた。彼らは正式に国に認められる形で入国しなかったためにイタリア国内で仕事に就くことができない人たちで、援助を求めて教会にやってくる。そしてイタリアの教会の信徒たちはそのひとたちを助けていた。姫路教会でもこのように困って援助を求める人が教会にやってくることはあるかもしれない。

    第三朗読では、エルサレム神殿崩壊の予告である。エルサレムと言えば神殿で、神殿はパワーのシンボル。終末論におびえるイエス様は惑わされないようにと説教される。

    終末論は昔の話ではない。いろいろな脅威が語られる。そして、信者の間にさえも同じことはおこっている。信者であっても惑わされることがある。気を付けなければいけない。信者に求められることは、インターネットやSNSの様々な情報を読んでもいいが、その内容を神様からいただいた知識を使って分析することである。いつも自分に問いかけ、それにかいてあることは神様の教えにかなったことかどうか点検して、分析することが大事です。みなさん、この世が終わりの時に天国に行くことができるようにしましょう。

    ◆感想

    久しぶりのジョニー神父様の説教でした。今の世の中、怖いことがたくさんあります。戦争も、自身も、食料難も怖いことです。でも、イエス様はどんなに怖くて嫌なことがあっても最後の最後にはイエス様が約束してくださる命の希望と喜びがある。どんな困難にあっても神様を信じて進んでいきなさいと励まされています。この神様のメッセージを支えに日々の暮らしをおくれたら怖いものはないという気持ちになります。

    「それは神様の教えにかなっているのかどうなのか」は私たちにとってありがたい基準、試金石です。詐欺やSNSの偽情報、政治家の誤ったメッセージなどなどあまりに多くの情報にさらされて頭がしんどいです。そんな世の中にあって、みるもの、きくものを、「それは神様の教えにかなっているのか」と問いかけるとたちまちその情報の偽の部分が剥がれ落ち、物事の本質を見抜くことができると思います。

    永遠の命をいただけるために、神様が教えてくださった道を歩もうとする私たちキリスト者は世の中の価値観に惑わされることなく、「それは神様の教えにかなっているのか」を基準に生きよ。そこを基準にしたとき、何だか背負っているものが軽くなる気がしました。

    ◆トピックス

    今日は姫路教会共同体の子供たちのお祝いがありました。

    未成年者とその親が祭壇の前に集められ、ジョニー神父様から祝福が授けられました。食前と食後の祈りの祈祷文カードとお菓子チョコボールがプレゼントされました。

    子どもたちは30名以上いるように見えました。驚きの人数です。ジョニー神父様はこの子供たちの多いことが姫路教会共同体の希望であると話されました。神に感謝。

    <七五三の祝別の祈り>

    子供たち「神様、私たちは、お父さま、お母さまのおかげで七五三のお祝いをすることができました。ありがとうございます。これからも元気なよい子になって、神さまを喜ばせることができますように、お守りください。アーメン

    親の祈り「すべての父であられる神様、この子供たちを授けてくださったことを感謝いたします。この子供たちが強く正しく生きるために必要なお恵みを常に与えてください。また私たち親としての尊い務めをふさわしく果たすことができますように、光と力を与えてください。心からお願いいたします。アーメン。

  • 2025.08.17 イエスは、…恥をもいとわないで 十字架の死を耐え忍び・・・(ヘブライ12.2より)

    ◆第一朗読 エレミヤの預言 (エレミヤ38.46,8-10)

    ◆第二朗読 ヘブライ人への手紙(ヘブライ12.1-4)

    ◆第三朗読 ルカによる福音(ルカ12.49-53)

    ◆赤窄神父様のお説教

     お盆の時期、帰ってくる孫の世話に暑い中よく働いて疲れていらっしゃるでしょうか。お疲れさまです。お盆のこの時期、親は今しか話せない話があるかもしれない。今聞いておかないと、この先二度と聞かないままになってしまうかもしれない。お盆でせっかく家族が顔を合わせて集まれるのなら、ただ疲れてしまうだけで終わってしまうのはもったいない。今のうちに話せることを話し合っておけるとよいお盆を過ごせたことになるでしょう。

     第一朗読に描かれている、自分に都合が悪い人物を殺そうとする話は昔話ではなくまさしく現在にもあることで、ずっと続いていることでもある。毎日朝、結構な時間をかけ新聞を読むと、読んでいても気持ちが沈んでいやになるニュースばかり。その世の中の出来事に対して自分ができることの小ささを感じ、無力を感じる。そんな無力にさいなまれる私たちにイエスからの励ましがある。

     第二朗読ではイエスは信仰の創始者また完成者と書いてある。小さくて無力な自分に忍耐強く寄り添い、ともにいてくださる神様は私たちの神様の素晴らしいところで、このことを考えるとうれしくなります。自分に定められている競争を忍耐強く走りぬこうと書いてある。神様は私たちを導いてくださるし、一緒に走ってくださる。すばらしい伴走者なのです。

     

    ◆感想

     赤窄神父様のお説教、もっと長いです。ゆっくり話してくださるので時間もそこそこかかっています。ちょっと思い出せないですが、要点はこれかなと受け止めました。

    ◆トピックス

     広島巡礼に出かけた中学生と高校生が共同祈願の祈祷文を唱えてくれました。姫路教会からは中学生3名と高校生1名が参加し、平和記念ミサにもあずかっています。適切な手ほどきのもと、彼らが広島で見て、感じて、考えることができたなら日本の将来に希望があります。

     歴史を振り返るとき落とした国が悪いということだけを学ぶのであれば平和への歩みではないと思います。本日の聖書と典礼の巻末にあるコラム「対話による平和の実現に向けて」で浜﨑眞実那覇教区派遣・横浜教区司祭も「平和実現のためには間違いを共有すること、特権を手放すことは必須でしょう」と述べ「抑圧と差別を受けた側の安心安全のため」ともはっきり書いておられます。対話をする者同士に安心安全がない中では対話にならないと思います。靖国神社に徒党を組んで参拝する人や自国民優先と言ってはばからない人はある意味社会的に認知され、信条に従って行動していると言い切って自己主張と自分弁護ができる強い人たちです。一方で、その声に醸し出されるきな臭い空気に対して不安で恐怖を感じる人もいるのです。その立場の人がいることを理解せず自説ばかりを主張することは対話をうまず分裂を助長します。強い人も弱い人も安心して安全に話し合えたなら、意見の相違があっても平和の実現のための道のりと思えるのですが。

     平和ボケ日本と言われても仕方がない日本でしたが、ここ2~3年世界情勢の変化に伴い、日本を取り巻く世界の状況も変化し、平和に対する国民の意識も変わりました。戦争は絶対にいけないという当たり前のことを国民が共有していると思っていたのに、最近は過激な論調も散見され決して穏やかな議論だけでは済まない不安定なテーマになっていると思います。戦争反対という当たり前のことが当たり前に言えない社会になってはいけないと強く思います。

  • 2025.08.03 上にあるものを求めよ。そこには、キリストがおられる

    ◆第一朗読 コヘレトの言葉 コヘレト2.21-23

    ◆第二朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 コロサイ3.1-5,9-11

    ◆第三朗読 ルカによる福音 ルカ12.13-21

    ◆赤窄神父様のお説教

     毎日のひどいあつさに何もしない、何もできない日が続いている。自分は、年を取って耳も聞こえにくくなり、補聴器をしても大勢の人が話すと何を言っているのか聞き取れない。物価の上昇もとまらない。何もかも値段が高くなる。一方で人間の価値は下がっていく。今日の第一朗読では、「むなしい」ということが書いてある。むなしいというのはどういうところからおこるものなのか。

     第二朗読では「貪欲」のことが書いてある。自分のためだけに求めすぎて夢中になりすぎるとき、人は貪欲になってしまう。貪欲に自分のためだけに富を蓄えたとして、でもその日に命を終えることになるひとのことがルカによる福音に書いてある。その人は自分のために富を積んだが、結果はむなしい。自分のためにばかり求める人はむなしい。そこに神様がいないのでむなしく不幸な結果になる。私たちは何かを求めるときに自分ではない、神様のことを考えなければむなしさから抜け出ることができない。キリストがすべてである。

    ◆感想

     赤窄神父様のゆっくりしたお説教で、ゆっくり思いめぐらしながら考えることができました。お説教はもっと時間も長く、話されたことも多かったと思いますが、思い出して書くことができなくて残念です。貪欲というくだりで、ここ数日夜な夜なネットショップで画面に映るモノに心を奪われていたことを振り返っていました。私にはタイムリー過ぎて、耳が痛いお話でした。確かに、何かを手に入れることに執着しすぎるときは、人は自分と欲望で頭がいっぱいになります。まさしく、「貪欲」です。神父様によると、人間の程よい欲求を超えても満足せずなおも欲しがることが貪欲だそうです。

     現代の社会の価値観は経済中心・経済重視に偏っているので、特に最近は物価上昇は止まらない反面、人間の価値は下げられている一方です。物質的な価値に夢中になりすぎることに注意を払うべきかもしれません。欲求を感じるとき、そこに神様のことや周りの人のことも考える余裕を持つように注意して、その欲求がむなしさにつながらないか、心の声を聴くことができるように気を付けたいと思いました。

    ◆トピックス

     ジョニー神父様は8/2から3か月間の休暇を取られます。どうかご無事に母国に戻られ、ご家族やご友人と旧交を温め、ゆっくり過ごしていただきたいです。そして11月には元気にお会いできることを楽しみにしています。ジョニー神父様がご不在の間、姫路教会に来てくださる神父様に感謝します。赤窄神父様しばらくの間どうぞよろしくおねがいします。

     聖歌「希望の巡礼者」2025年聖年の賛歌♪ が閉祭の歌で歌われました。これまであまり歌うことがない曲でしたが、今日はとても大きな声で皆さん歌っていて、子どもたちもよく声を出してうたって、素晴らしいなと思いました。

    この方は「むなしい」や「貪欲」とは無縁であったと思う。

    清貧に生きたアシジの聖フランシスコやその他諸聖人も同じくと思う。

    神様の前に豊かになるという生き方のモデルということだと思う。

  • 2025.07.27 求めなさい。そうすれば、与えられる

    ◆第一朗読 創世記18.20-32

    ◆第二朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 コロサイ2.12-14

    ◆第三朗読 ルカによる福音 ルカ11.1-13

    ◆神父様のお説教

     先週は「もてなす」がテーマだったが、今週のテーマは「祈り」いのること。ソドムとゴモラの罪は重かった。どういう罪かというと、性的な遊びばかりしていた。神様が滅ぼそうとしたが、アブラハムは許しを取り次いでいる。結果的にソドムとゴモラの町は滅ぼされてしまうがアブラハムの甥ロトとその家族は二人の天使によって救い出された。ロトの奥さんは逃げるときに後ろを振り向いたので塩の柱にされてしまい助からなかった。後ろを振り向いたということは奥さんの心がソドムとゴモラの町に残っていたということです。だから救われなかった。

     アブラハムはソドムとゴモラの町の人のために神様にお祈りした。私たちも祈るときは自分のためだけを祈ってはいけない。他の人のために祈りをささげることが大切です。聖書と典礼の共同祈願の例文をみてもわかる通り、私たちの祈りは私たち姫路教会共同体のためだけに祈るのではない。

     第二朗読では私たちが救われたのはキリストが死んでくださったからということを説明している。私たちは私たちのために死んでくださった神様とつながっていなければならない。神様とつながることが信仰である。

     ルカによる福音ではイエスが祈りを教えてくださったことが描かれている。ごミサはすべての祈りの頂点です。そのすべての祈りの母(基礎・土台)は主の祈りです。主の祈りの中にお祈りの基本がある。何を祈るか、祈るときはどういう順番で祈るか。大切なことは何か。

     主の祈りにあらわされている祈りのポイントは、

    まず初めに、

    ふたつ目は、

    神様のことを考えてから自分のことをお願いすること

    みっつめは、

    人を許す。ゆるしを求めるだけではなく、神様から見て罪びとである私たちがまずひとをゆるすこと。

     祈りを勉強する一番の方法は祈ること。上達する方法は運動と同じ。運動はすればするほど上手になる。祈りも、祈りをすればするほど上手にできるようになる。苦しいときだけ、困ったときだけするのは祈りではない。苦しい時の神頼みは本当の祈りになっていない。祈りは忍耐強く、絶えず神様に求めること。

    ◆感想

     アブラハムが神に許しを請い、甥のロトとその家族は天使によって救い出された。しかしロトの妻は逃げる途中に、後ろを振り返ったから塩の柱になってしまい助からなかった。その理由の解釈が「後ろを振り返るという行為は罪深い町に心を置いていたから」となるほどでした。

     主の祈りはすべての祈りの母だそうです。主が教えてくださった祈りですから、考えてみればその通りです。まず感謝をささげて、神様のことを賛美して、それから自分の願いをする。自分のことばかり祈るのではなく、自分以外の人のために祈る。自分も神様に許されているのだから人のことを許す。祈りは祈れば祈るほど上手になる。祈りの極意を教えていただきました。

  • 2025.7.20 お客様、しもべのもとを通り過ぎないでください

    お客様、僕のもとを通り過ぎないでください。

    ◆第一朗読 創世記18.1-10

    ◆第二朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 コロサイ1.24-28

    ◆第三朗読 ルカによる福音 ルカ10.38-42

    ◆お説教

     神様に会ってみたい、直接顔を見たいと思うひとはいらっしゃるでしょうか?

     アフリカの教会ではイエズス様もマリア様も西洋の顔立ちのものでした。黒い色の肌をしたマリア様やイエズス様ではなかった。だから、私が神ですと言って黒い皮膚の人が来てもそうとは思わなかったかもしれない。

     あるところに神様に直接会ってみたいと強く望み、祈るお金持ちの人がいた。神様から、明日の12時にあなたを訪ねますと返事をもらって、大喜びでごちそうやおもてなしの準備をしてその時を待っていた。翌日の12時、ドアをたたく人がいて、お金持ちはワクワクしながら出迎えに出ると貧しい人が立っていた。お金持ちはこの貧しい人は神様ではないと言って追い返した。そのあとで頭がおかしな人がきた。またお金持ちは追い返した。そのあとまたおかしな人が来て、追い返した。お金持ちは怒ってしまって、神様に今日は来なかったと文句を言った。すると神様はあなたが神ではないと思って追い返したあの貧しい人は私だったのだと教えられた。

     今日の福音書では、アブラハムが三人の人間を親切にもてなしたところ、その三人は人間の姿に身を隠して現れた神様と天使だったというもの。親切にもてなしたということはどういうことか。「走り出て迎え、地にひれ伏して」と書いてある。地にひれ伏してとうことは、あいさつしたということ。みなさんはあいさつをしていますか?日本では、最近挨拶をすることが相手の迷惑になると思って挨拶をしなかったり、挨拶をすると驚かれたりする。しかし、アブラハムが示した信者としての行動は、挨拶することです。姫路教会を訪れる信者や神父にも挨拶しない、言葉を交わさないのは不親切なことだと気に留めていただきたい。

     イエスをお迎えしてマルタはごちそうを用意することでもてなそうとした。一方、マリアはイエスの話すなわちみ言葉を聞くことを選んだ。マルタはイエスにマリアにもごちそうの用意を手伝うように言ってほしいと頼んだが、イエスは、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それをとりあげてはならない。」とお答えになった。

     この「マルタ、マルタ」と呼び掛けておられるところを皆さん自分の名前と置き換えて、主が私たちに呼びかけておられると想像してみてください。マルタが食べ物を用意することは人間の目から見てとてもまともで、人間の体を養うために食べ物は大切である。しかし、信仰の目からはマリアのしていることが正しい。マリアはみ言葉を聞くことで信仰を養っている。神様は肉体的な栄養(食べ物)ではなくて、信仰を育てる(み言葉)ことで人間を養われる。ミサの中でもご聖体をいただく前にみ言葉の祭儀があります。ご聖体をいただく前にかならずみ言葉があるので、ごミサに遅れてあずかることはよくない。

     「聖書と典礼」をミサ後おいて帰ることなく持ち帰り、家庭でもたびたび読みましょう。社会活動などの行いも大切ですが、み言葉で信仰を深めることも大切です。活動と信仰のバランスがどちらかだけに偏ることがないようにしましょう。信仰はみ言葉を聞くことによって始まるのです。

    ◆感想

     「小さな人々の一人一人を見守ろう。一人一人の中にキリストがいる」この歌が示す神様のイメージは今日の福音書と重なる。私たちが日々出会う人の中に神様を見出し、神様と相対して出会えるように呼びかけられている。あなたがしたことは私にしてくれたことであるという神様の言葉も肝に銘じておかなければならないと思った。

     マリアとマルタのこの話は幼少のころから知っている。手伝わないマリアにいら立つマルタ。手伝わない人に寛容になりなさいくらいの意味と受け止めていたけど、きょうのジョニー神父様の説教では信仰を養うみ言葉が体をやしなう食べ物よりも大事という意味まで現わしていたと理解しました。み言葉は信仰を育てる大切な栄養だから、もっともっとみ言葉に触れ、み言葉を味わい、子どもたちにもみ言葉を聞かせなくてはと思いました