2026.10.11 町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい

◆第一朗読 イザヤの預言(イザヤ25.6-10)

◆第二朗読 使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ4.12-14,19-20)

◆福音朗読 マタイによる福音(マタイ22.1-14または22.1-10)

◆神父様のお説教 (朝7時のミサは淳心会のアフリカ出身の神父様がたててくださいました。お名前の紹介がなく、お名前がわかりません。大変申し訳ありません)

 神さまは私たちのために祝宴を用意してくださっています。神様の祝宴にはおいしいお料理が用意されているでしょうか。ある子供向けの勉強会の時に、1人のこどもからそのように聞かれたことがあります。その子どもは「もしも神様が用意された天国の祝宴においしい料理がないなら、ぼくは天国へ行きたくない」と言いました(笑)そのことがあってからいろいろ考えてみました。聖書全体を読むと、旧約聖書でも新約聖書でも神様のみもとではまた食卓を囲むということになっています。あの時の子どもに今だったら神の祝宴にはおいしいものが用意されていると伝えてあげられます。

 今日の三つの朗読と答唱詩編には神様の用意される祝宴が語られています。第一朗読では、イザヤは万能の主が用意される祝宴について壮大なビジョンを語っています。その祝宴に用意されるのは良い肉、おいしいぶどう酒など最良の食べものだけではありません。人類のすべての悲しみ・苦しみをおわらせる、死さえも取り払ってくださる、これこそ神さまが用意してくださる祝宴です。神の恵みが語られています。あなたのため、わたしのため、すべての人のためにこの祝宴が開けれるのです。すべての人ですから、どんな人でも、罪を犯した人も招かれています。

 第二朗読ではパウロは自分は豊かなときも、貧しい時も、飢えていた時も、泣いていた時も、満ち足りていた時もすべてを経験したと言います。「私を強めてくださる方のおかげで、わたしにはすべてが可能である。」と言っています。主を信頼していればなんでも満たされてなんでもできると言います。パウロは神の祝宴とは物理的なことではなく、神が心を満たしてくださる恵みであることを知っていました。キリストイエスによって必要を満たしてくださるのです。どれほど貧しくても、どれほど悲しくても、どれほど罪を犯しても、いかなることにも対処できるめぐみを受け取ることになるのです。

 福音書では神様が息子のための婚宴を開くのに、招かれたものがやって来ないという場面が描かれています。婚宴に招かれているのに、あるものは畑に出かけていき、あるものは商売に出かけ、あるものは使者をつかまえて殺してしまう。そんな話はまるで昔話のようですが、昔話ではありません。私は先日車で3時間かけてやっとのおもいで千葉の教会にミサのために行きましたが、そこにはごく少数の信徒が来ているのみでした。神様がいつも準備して、こんな遠いところにまで司祭を送り、祝福を与えようとしているのに、人々がそれを十分に受け取っていない、神様のまねきにこたえられていない。そのようなことを思い起こさせるお話だと思います。

 今日の三つの朗読はわたしたちに大きなメッセージを投げかけています。 「神はあなたの必要を満たしてくださっている。招かれたら心を整えて神の招きにこたえていきましょう。神はあなたのために祝宴を開き、あなたの必要を満たしてくださいます。」そしてわたしたちにこう問いかけています。

 みなさんは神の招きにこたえているでしょうか?心配や不安の中でも神の声を聴くことができるでしょうか。自分の不安で心がいっぱいで神の声を聴けなくなってはいないでしょうか。自分の都合ばかりを優先して神の祝宴に行く興味を失っていないでしょうか。

 「来なさい。あなたのために私は祝宴を用意しました。」と神はいつも準備してくださっています。神様は私たちの過去のことにとどまるのではなく、今と未来を良くするために呼びかけておられます。神様のおまねきにこたえることができるように、反省して、イエスキリストに心を向けて、こたえていきましょう。

◆感想

 「神の食卓に招かれたものは幸い」とミサの中でいつも司祭が言う通り、ミサは神様が用意してくださった祝宴なのだとあらためて思いました。でも、「用事があるから」「試験中だから」「ちょっと休みたいから」とか様々な理由でミサを素通りしてしまうことは大いにあることです。私も、ふりかえると、さしたる理由もないのに、躊躇することもなく無自覚にミサに行かない時期もありました。

 最近しばしば、同じ信仰で結ばれた人はみな、同じ神の国へ行くことに思いを馳せます。同じ信仰に結ばれた人々とつながり、神様に身をゆだねる限り、いつも一緒にいられるというイメージに安心、心の安寧を感じます。仮に家族であっても同じ信仰ではない場合は「町の大通りに出て、見かけたものはだれでも婚宴に連れて来なさい」という言葉通り、信仰の喜びを分かち合い、同じ信仰につながろうとはたらきかけることもキリスト者の大切な役割ということなのでしょう。

 今日のごミサをたててくださった神父様のお名前がお伝え出来なくて残念です。アフリカ出身の神父様で、日本語も大変堪能で、ゆっくり話してくださりわかりやすかったです。どんな人も招かれているというくだりに励まされました。神様の国は差別もないのです。

 

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