
◆第一朗読 イザヤの預言 イザヤ55.1-3
◆第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ8.35,37-39
◆第三朗読 マタイによる福音 マタイ14.13-21
◆ジョニー神父様のお説教
皆様は暑い中教会に来て、ミサに与って、説教を聞こうとされています。今日はどんなメッセージをもって帰られるのでしょうか。
神様はバビロンに島流しになって、そこで奴隷生活を送っていたイスラエルの人々に話しかけられます。奴隷の生活をやめて自分の国にかえることができるよ、もっと楽に生活できるようになるよと約束してくださったのです。しかしなぜ自分たちは追放されて奴隷生活を送るようになったのか、追放の理由を忘れてしまった人がいます。その人たちのために、神は預言者を通して「今から故郷に帰るけれど、これからは決して自分のもとを離れないことを約束してください」と語り掛けられるのです。
この話と現代の私たちはどう関係があるのでしょうか。関係ない話のように聞こえますか?これは、私たちへの神からのメッセージなのです。私たちは神様からなはれていることがある。好きに生きたいと言って神様から離れてしまっている時がある。そんな時私たちは悔い改め、神に立ち返らなければならないのです。私たちはいろんなものを欲しがります。食べ物、健康、仕事、結婚したい、欲しいものやなりたいものはたくさんあります。それらを欲しがる前に神様に悔い改める、回心することが大切です。
第二朗読では、イエスキリストの愛は信仰生活の中心であることが語られています。イエスキリストの愛とは、「イエスキリストが私たちに与える愛」「イエスキリストからの愛」「イエスキリストに対する愛」、その愛が欠けるといくら祈っても、いくらミサに与っても意味がない。今日は新約聖書を持ってきました。なぜなら聖書のある箇所を皆様に紹介したいからです。これは有名で日本でも結婚式で朗読されたりします。
『コリントの信徒への第一の手紙13章』
1たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 2たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 3全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
4愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 5礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 6不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 7すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
8愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 9わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 10完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。 11幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。 12わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。 13それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

信仰、希望、愛はいつまでも残る。その中で最も重要なのは愛と言われています。皆さまの心の中に愛がありますか?神への愛、イエスへの愛、自分の夫への愛、妻への愛、子どもへの愛、教会に来れば他の信徒への愛。神様は何があっても私たちのことを愛しておられます。だから十字架につけられて亡くなられたのです。私たちは恩返しという言葉をよく言いますが、この十字架で死んでくださったイエスキリストの愛にこたえるために私たちが示さなければならない恩返しがあるとしたら、愛でなければならないのではないですか?

福音では信者ならだれでも知っていると思われる有名な箇所が読まれました。五つのパンと二匹の魚です。砂漠で、食べ物も水もないなか、イエスのもとに大勢の群衆が集まってきている。イエスはじっと彼らをみて、彼らは元気がないとわかります。私も今日この聖堂にお集まりの皆様をみて、皆様が元気ではない、暑さに負けておられることがわかります。もっとも、ここに来ることができず病気で寝ておられる人もいるでしょう。先日の熊本地震では、人々を救助する方法が紹介されていて、私が神学校で学んだ法則と同じであったので驚きました。人を助けるときは、観察、判断、意思決定、行動の順番で進めます。イエスのもとに集まった群衆を見て、弟子たちはイエスとは全く正反対の態度をとりました。弟子たちには憐みがない。なぜかというと、弟子たちには少しとは言え、パンがあったのに、群衆を解散させようとしたからです。
さて、日本におけるカトリック教会はどちらの態度でしょうか。イエスの態度か、弟子たちの態度か。断っておきますが、日本におけるカトリック教会という中にはジョニー神父も含みます。私は宣教生活を日本で送っているのですから当然です。皆様にも自分自身に問いかけてほしいです。正直に申し上げると、解散させる態度ではないですか?人を助ける気持ち、人を助ける心はありますか?もし仮にあるとしたら、では助けたい人はどこにいるのでしょうか?遠くの人になっていませんか。身近なところで本当に助けてもりたい人たちはかくれています。その人たちは、私たちに助けを求めても与えられず、やっと助けてもらえる時には嘲笑われる、はずかしいから隠れているのです。アフリカではもちろん、フィリピン、アメリカ、カナダ等多くの国のミサでは、捧げられるものはお金だけではなく、食べ物であったりいろいろなものがあります。それは司祭のためと貧しい人々のための役に立つからです。
人を助ける心を育てることは大事なことです。この教会ではルールがありすぎて、人を助けるためでも一人では決められない。評議会に相談しなければ何事も判断されないのです。貧しい人はたくさんいます。昨日もこの教会の敷地で炊き出しが行われていました。阿倍野教会にいたときは夜になると多くのホームレスが食事を求めて来ていました。イエスは貧しい人達を助けるのに何もないゼロの状態から食べ物を増やして分け与えたのではなく、あるものを増やされました。
熊本の前はベネズエラで、その前はフィリピンで地震が起こりました。私たちは大阪玉造教会からFAXで募金活動が指示されるとそれを待って動きます。ベネズエラの地震の募金をお願いしますとアナウンスしたときに、そこにはおおくのフィリピンの信者たちがいたかもしれない。地震で被害を受けて大変かもしれないフィリピンの人たちに向かって、フィリピンでの被害のことは何も触れないで募金だけお願いするようなことがあっては悲しいことだと思います。皆様にはすこし想像力をもって考えていただきたいのです。
イエスは人々に食べ物を分け与え、食事の前には天を仰いで賛美の祈りをささげられました。私たちは食事の前に「いただきます」といいます。しかし、信者ですからいただきますだけでは祈ったことにはなりません。これは神様からいただいたお恵みです。ありがとうございますと神様に感謝することが大切です。神様に感謝してお祈りし、それに加えていただきますということです。私たちの信仰を日々証して、神からのめぐみに感謝し、より豊かに生きられるように祈りましょう。
◆トピックス
今日は第一日曜でしたが教会学校が夏休みのため教会学校のこどもたちの奉仕はお休みでした。そんななか、男子中学生と女子中学生、女子小学生がベテラン侍者と一緒に奉仕し、女子小学生が先唱、男子高校生が答唱詩編を歌いました。私の記憶にある限り、姫路教会において男子学生が答唱詩編を歌うのをみたのは初めてと思います。低い声だけどのびのびした明るい声で詩編の祈りが胸に響きました。神に感謝。
◆感想
五つのパンと二匹の魚は有名です。たとえわずかなものであっても、それを分かち合おうとする心があれば神様の業によって余りあるほどのものに変えられるというお話と受け止めていました。分かち合おうとする心が奇跡を起こしたのですが、今日の説教ではもっともっと深い気付きをいただいた気がしました。弟子は解散させたかったんだよな・・・パンを持っていたからこそ、解散させたかったのかな・・・私もそうするな、と正直思いました。わずかしかないからと利己的になるのではなく、恥ずかしがるのでもなく、わずかしかないにもかかわらず分かち合う気持で差し出せばよいのだと肩の力が抜ける気もしました。五つのパンと二匹の魚の話はモチーフもかわいらしく、魅かれます。
久しぶりにスパイシーな語り口のお説教でした。私たちは機械ではないのですから、もっと人間の心を使って!人間らしく想像力を働かせて!!と神様からのメッセージのように聞こえました。

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