2025.08.17 イエスは、…恥をもいとわないで 十字架の死を耐え忍び・・・(ヘブライ12.2より)

◆第一朗読 エレミヤの預言 (エレミヤ38.46,8-10)

◆第二朗読 ヘブライ人への手紙(ヘブライ12.1-4)

◆第三朗読 ルカによる福音(ルカ12.49-53)

◆赤窄神父様のお説教

 お盆の時期、帰ってくる孫の世話に暑い中よく働いて疲れていらっしゃるでしょうか。お疲れさまです。お盆のこの時期、親は今しか話せない話があるかもしれない。今聞いておかないと、この先二度と聞かないままになってしまうかもしれない。お盆でせっかく家族が顔を合わせて集まれるのなら、ただ疲れてしまうだけで終わってしまうのはもったいない。今のうちに話せることを話し合っておけるとよいお盆を過ごせたことになるでしょう。

 第一朗読に描かれている、自分に都合が悪い人物を殺そうとする話は昔話ではなくまさしく現在にもあることで、ずっと続いていることでもある。毎日朝、結構な時間をかけ新聞を読むと、読んでいても気持ちが沈んでいやになるニュースばかり。その世の中の出来事に対して自分ができることの小ささを感じ、無力を感じる。そんな無力にさいなまれる私たちにイエスからの励ましがある。

 第二朗読ではイエスは信仰の創始者また完成者と書いてある。小さくて無力な自分に忍耐強く寄り添い、ともにいてくださる神様は私たちの神様の素晴らしいところで、このことを考えるとうれしくなります。自分に定められている競争を忍耐強く走りぬこうと書いてある。神様は私たちを導いてくださるし、一緒に走ってくださる。すばらしい伴走者なのです。

 

◆感想

 赤窄神父様のお説教、もっと長いです。ゆっくり話してくださるので時間もそこそこかかっています。ちょっと思い出せないですが、要点はこれかなと受け止めました。

◆トピックス

 広島巡礼に出かけた中学生と高校生が共同祈願の祈祷文を唱えてくれました。姫路教会からは中学生3名と高校生1名が参加し、平和記念ミサにもあずかっています。適切な手ほどきのもと、彼らが広島で見て、感じて、考えることができたなら日本の将来に希望があります。

 歴史を振り返るとき落とした国が悪いということだけを学ぶのであれば平和への歩みではないと思います。本日の聖書と典礼の巻末にあるコラム「対話による平和の実現に向けて」で浜﨑眞実那覇教区派遣・横浜教区司祭も「平和実現のためには間違いを共有すること、特権を手放すことは必須でしょう」と述べ「抑圧と差別を受けた側の安心安全のため」ともはっきり書いておられます。対話をする者同士に安心安全がない中では対話にならないと思います。靖国神社に徒党を組んで参拝する人や自国民優先と言ってはばからない人はある意味社会的に認知され、信条に従って行動していると言い切って自己主張と自分弁護ができる強い人たちです。一方で、その声に醸し出されるきな臭い空気に対して不安で恐怖を感じる人もいるのです。その立場の人がいることを理解せず自説ばかりを主張することは対話をうまず分裂を助長します。強い人も弱い人も安心して安全に話し合えたなら、意見の相違があっても平和の実現のための道のりと思えるのですが。

 平和ボケ日本と言われても仕方がない日本でしたが、ここ2~3年世界情勢の変化に伴い、日本を取り巻く世界の状況も変化し、平和に対する国民の意識も変わりました。戦争は絶対にいけないという当たり前のことを国民が共有していると思っていたのに、最近は過激な論調も散見され決して穏やかな議論だけでは済まない不安定なテーマになっていると思います。戦争反対という当たり前のことが当たり前に言えない社会になってはいけないと強く思います。

コメント

“2025.08.17 イエスは、…恥をもいとわないで 十字架の死を耐え忍び・・・(ヘブライ12.2より)” への1件のコメント

  1. さわがしいたぬきのアバター
    さわがしいたぬき

    戦争は、しないで済ませられるなら、絶対にしないでおきたいのですが…。国際社会には、警察や裁判所のようなものが無いのが痛いところ。

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