ジョニー神父様の愛のお説教です。今日もいいことを聞いてわくわくしました。忘れないように書いておきます。


Jny神父様のお説教 要約
◆jny神父様お説教
今日はいつくしみの主日となっている。この名前はヨハネ・パウロ二世教皇様がつけられたものである。先週フランシスコ教皇様がお亡くなりになられた。カトリック信者でない人たちからも愛される非常に人気がある教皇様であった。愛された理由は、二つある。一つ目は、あかしする方であったこと。もう一つは、しるしすなわち奇跡をおこなう教皇様であったことが挙げられる。
あかしとは、弱い人や苦しんでいる人がいればそばに行って慰める、ともにいるという行い。私たちカトリック信者もあかしすることを求められている。キリストを知らない人たちも私たちのキリスト者としての行動をみてキリスト者のことを理解する。私たちはキリスト者としての行いでキリストをあかしをすることが求められている。疲れるときやすり減っているときもあるが、その時には例えばスマホが充電を必要とするように、キリスト者も教会で神様に出会い、また満たされて頑張る。信者の務めは教会にきてミサにあずかったらそれでおしまいではない。教会にきて神様から力をいただいたら、教会の外に出てからも自分たちの行いを通して神様を知らない人にも神様を伝えていくことが求められている。
教皇様が行われた奇跡は、例えばフランスでは政治家たちは宗教を嫌い、信者がどんどん減っていった現実があるのに、洗礼を受ける人が増えたこと。信者の数は減っている。ℍ教会では来年洗礼を受ける人はいないことになっている。理由は、jny神父が休暇で数か月母国に帰国する間、代わりに勉強を教える人がいない。そのような状況では洗礼志願者たちを指導することができず、勉強が中途半端になっても困るので志願者を受け入れできない予定になっている。残念なことであるが、福音宣教チームがより積極的な宣教かつどうをしなければこの教会の未来はどうなるか?信徒は考えなければいけないでしょう。
次の教皇様を選出することになる。フランシスコ教皇様のような考えを持つ教皇様が選ばれてほしい。聖霊の働きによってそのような教皇様が選ばれるように一人ひとりのお祈りをお願いしたい。
ヨハネによる福音 トマスは復活したキリストが皆の前に現れたその場にいなかったので、主を見たというほかの弟子たちに対して「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」といった。イエスはトマスの間にも現れて信じないものではなく、信じるものになりなさいと諭された。それはトマスに対してだけではない、私たちに対してのメッセージでもある。
神様は目に見えない。jny神父が奇跡をおこなうのを待っていても死ぬまでそれは見ることはできない。神様の言葉は見て信じるものではなく、言葉を耳から声で聞いて信じるものである。そのためには神様のことや神様のことを聞かせてくれる人の存在が必要である。jny神父に教会学校で初聖体まで勉強を教えてくれた人はシスターでも神父でもない、ひとりの聖職者ではない女性だった。その女性のことを帰国するたびにいつも探している。いつも元気でいてくれているかと気にしている。誰にとってもそのように神様のことを耳から聞かせてくれる人の存在が必要で、子供にとっては家庭で家族、親、兄弟、教会でも信徒たちから子供たちに語り聞かせてあげることが大切である。耳からきいたみ言葉が信仰の種となり、大切に育てればやがて芽を出し、育っていく。
◆気づき・感想・つぶやき
フランシスコ教皇様が小さくされた人のそばに行って、慰め、励まされる行いはキリスト者の模範となっているが、そのように行動することを私たちも神様から励まされているのだと改めて気が付きました。
信じようとしなかったトマスの姿は、私の姿に重なる。そんなトマスにイエス様はわざわざ現れてくださった。それはトマスを、私を愛してくださっているからだ。信じていいと導かれるということは大きなよりどころ、なぐさめに通じる。
目で見ないと信じないのは現在の私たちもおなじである。目で見えるものは、金・快楽・肩書・権力に象徴されるこの世の欲ともいえる。神様は目に見えない、見えないけれど私たちを愛し、神様のやり方で働きかけてくださっている。目に見えるものを頼りにしすぎることなく、耳から聞く神様のみ言葉を信じることが大事である。大人たちが子供たちに語り掛け、言葉を聞かせてあげれば信仰の種が子供に植えられ、大切に育てればやがて芽を出し、育っていく。子供たちに語り続けることが大切であるらしい。なるほど、その通りだとおもう。おとなはあきらめず、こどもに語り掛けるべし。

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