2025.07.13 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。

◆第一朗読 申命記30.10-14

◆第二朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 コロサイ1.15-20

◆第三朗読 ルカによる福音 ルカ10.25-37

◆お説教

 今日も暑い。暑いなかどうして皆さんは教会に来られるのか。教会に来る目的は、友達に会うためではない。ジョニー神父に会うためでもない。教会に来る理由は、救いを求めているからです。どうしたら救われるのか?今日の3つの朗読がその答えを示している。

 第一朗読では、救われるためにみ言葉を聞いて、聞いたことを守り、具体的に何をするかを説明している。第二朗読では、救われるためには何をすべきかというと、イエスを信じることに尽きると説明されている。イエスの絶対性、イエスキリストはすなわち神であるということ。神イコールイエスキリストである。第三朗読では、大事なことは愛することであるということを説明している。人は信仰と愛によって救われる。愛とはだれを愛することか。それは神様です。人は、神様を信じること、神様を愛することで救われるのです。

 第三朗読のよきサマリ人のたとえ話では、私たちがその人の隣人になることを求められている。教会でも自分がいる場所から前だけをみておしまいではさみしい。右の人、左の人、前の人、後ろの人に気を配り、自分の周りにいる人を気遣う感性が求められている。この心配りができないと人を救うことはできない。まず身近な人を気にかけることから始めるとよい。家族なのに挨拶もしない、声を掛け合わない姿も珍しくない世の中になっているかもしれないが、神様からあたえられた最初の隣人は家族です。

 行って、あなたも同じようにしなさいと神様は言われた。話を聞いていい話だったと感想を述べることよりも、実際に自分が耳から聞いて、そのようにできるように頑張りますという行動のほうが神様は喜ばれる。つまり、その私たちの頑張りに神様がむくいてくださるのです。

◆感想

 よきサマリア人の話は有名です。困っている人を目にしたら心を動かされて助けることはシンプルに当たり前のことですが、意外にこの当たり前ができない世の中です。大きな人助けができたらそれは素晴らしいですが、難易度が高いことだと思います。でも、自分の周囲の人に気配りする、心配りをすることはできることだと思います。無関心は愛と対極の行為です。人に愛を示せる心に余裕がある大人でありたいと思いました。自分から愛を示せる大人に、つまり自分から積極的に挨拶したり、声掛けしたりできるようになりたいです。

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA