2025.7.20 お客様、しもべのもとを通り過ぎないでください

お客様、僕のもとを通り過ぎないでください。

◆第一朗読 創世記18.1-10

◆第二朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 コロサイ1.24-28

◆第三朗読 ルカによる福音 ルカ10.38-42

◆お説教

 神様に会ってみたい、直接顔を見たいと思うひとはいらっしゃるでしょうか?

 アフリカの教会ではイエズス様もマリア様も西洋の顔立ちのものでした。黒い色の肌をしたマリア様やイエズス様ではなかった。だから、私が神ですと言って黒い皮膚の人が来てもそうとは思わなかったかもしれない。

 あるところに神様に直接会ってみたいと強く望み、祈るお金持ちの人がいた。神様から、明日の12時にあなたを訪ねますと返事をもらって、大喜びでごちそうやおもてなしの準備をしてその時を待っていた。翌日の12時、ドアをたたく人がいて、お金持ちはワクワクしながら出迎えに出ると貧しい人が立っていた。お金持ちはこの貧しい人は神様ではないと言って追い返した。そのあとで頭がおかしな人がきた。またお金持ちは追い返した。そのあとまたおかしな人が来て、追い返した。お金持ちは怒ってしまって、神様に今日は来なかったと文句を言った。すると神様はあなたが神ではないと思って追い返したあの貧しい人は私だったのだと教えられた。

 今日の福音書では、アブラハムが三人の人間を親切にもてなしたところ、その三人は人間の姿に身を隠して現れた神様と天使だったというもの。親切にもてなしたということはどういうことか。「走り出て迎え、地にひれ伏して」と書いてある。地にひれ伏してとうことは、あいさつしたということ。みなさんはあいさつをしていますか?日本では、最近挨拶をすることが相手の迷惑になると思って挨拶をしなかったり、挨拶をすると驚かれたりする。しかし、アブラハムが示した信者としての行動は、挨拶することです。姫路教会を訪れる信者や神父にも挨拶しない、言葉を交わさないのは不親切なことだと気に留めていただきたい。

 イエスをお迎えしてマルタはごちそうを用意することでもてなそうとした。一方、マリアはイエスの話すなわちみ言葉を聞くことを選んだ。マルタはイエスにマリアにもごちそうの用意を手伝うように言ってほしいと頼んだが、イエスは、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それをとりあげてはならない。」とお答えになった。

 この「マルタ、マルタ」と呼び掛けておられるところを皆さん自分の名前と置き換えて、主が私たちに呼びかけておられると想像してみてください。マルタが食べ物を用意することは人間の目から見てとてもまともで、人間の体を養うために食べ物は大切である。しかし、信仰の目からはマリアのしていることが正しい。マリアはみ言葉を聞くことで信仰を養っている。神様は肉体的な栄養(食べ物)ではなくて、信仰を育てる(み言葉)ことで人間を養われる。ミサの中でもご聖体をいただく前にみ言葉の祭儀があります。ご聖体をいただく前にかならずみ言葉があるので、ごミサに遅れてあずかることはよくない。

 「聖書と典礼」をミサ後おいて帰ることなく持ち帰り、家庭でもたびたび読みましょう。社会活動などの行いも大切ですが、み言葉で信仰を深めることも大切です。活動と信仰のバランスがどちらかだけに偏ることがないようにしましょう。信仰はみ言葉を聞くことによって始まるのです。

◆感想

 「小さな人々の一人一人を見守ろう。一人一人の中にキリストがいる」この歌が示す神様のイメージは今日の福音書と重なる。私たちが日々出会う人の中に神様を見出し、神様と相対して出会えるように呼びかけられている。あなたがしたことは私にしてくれたことであるという神様の言葉も肝に銘じておかなければならないと思った。

 マリアとマルタのこの話は幼少のころから知っている。手伝わないマリアにいら立つマルタ。手伝わない人に寛容になりなさいくらいの意味と受け止めていたけど、きょうのジョニー神父様の説教では信仰を養うみ言葉が体をやしなう食べ物よりも大事という意味まで現わしていたと理解しました。み言葉は信仰を育てる大切な栄養だから、もっともっとみ言葉に触れ、み言葉を味わい、子どもたちにもみ言葉を聞かせなくてはと思いました

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