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  • 2026.02.22 実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです

    ◆第一朗読 創世記2.7-9,3.1-7

    ◆第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ5.12-19,

    ◆第三朗読 マタイによる福音

    ◆ジョニー神父様のお説教

     第一朗読では、神が人を作られた。人を作っただけでなはく、神様は人と一緒に生活され近い距離におられたということも表している。人間が、み言葉を大切にし、み言葉を守ることが、神様に協力し、神様に忠実に生きているということになり、それが造り主である神への感謝をささげることにつながっている。

     イブを誘惑したのは蛇です。蛇というのは蛇の姿をかりた悪魔です。悪魔はとてもずる賢いので、イブを誘惑するときは巧妙にイブのあることを利用して誘惑を仕掛けてきた。蛇はイブの何を利用したのでしょうか。

     蛇はイブの不満を利用したのです。

     イブはわかっていたのに最後まで誘惑を断り切れなかった。イブは自分が神様と同じように完ぺきではないとして自分に満足していなかった。満足していないので自分に不満があった。蛇はその不満を上手に利用して誘惑に陥れたのです。

     これでお話が終わると、この話がただの昔話になってしまう。現代でも悪魔はいます。蛇の姿をした悪魔は、現代ではテレビやインターネット、スマートフォンなどに姿を変えているかもしれない。

     第二朗読では、人が罪を犯した結果何が起きたかが書かれている。罪の結果、死が入りこんだのです。罪を犯すと神様と離れることになり、神から離れたところに命はない。しかし、イエスによって私たちは救われた。言い換えると、罪があっても私たちは神の恵みによって許されるのです。私たちは神のお恵みが働くように神に感謝をささげ、忠実にみ言葉を守り、神のみ言葉にたがわない行いをしているでしょうか。私たちの信仰を今一度チェックするときです。

     第三朗読ではイエスも悪魔の誘惑を受けられたことが書いてある。イエスがうけた誘惑は人間が誘惑を受けるのとは決定的に違う点がある。それは・・・

     イエスのうけられた誘惑は聖霊の働きによるものであり神の御計画のうちであったということ。イエスは悪魔の誘惑に敗れず、打ち勝った。どのようにしてイエスが悪魔の誘惑を退けたのかというと、聖書に書かれた言葉を使って打ち勝ったのです。

     四旬節は、私たちの信仰を振り返るチャンスです。私たちの信仰は大丈夫でしょうか。日曜日にミサにあずかるつもりにしていてもオリンピックの試合を見過ごせなくてテレビから離れられないからミサにあずからないなどということがないでしょうか。今日は大阪マラソンがあって、とか姫路マラソンがあってミサにはあずからないでいいとかそんな誘惑に負けることはないでしょうか。神に立ち返るために、み言葉を大切にして、喜びをもってみ言葉に従った行いをすることが大切です。日曜日に教会に来て、その時だけみ言葉を味わうのでは足りないでしょう。家でも一日一節でも聖書をよみ、み言葉を味わえるように努力しましょう。そして、み言葉を武器にして、悪魔の誘惑を退け、悪に打ち勝っていきましょう。

    ◆トピックス

     ・今日はミサの中で一人のベトナム女性の洗礼志願式が行われました。本日は都合によりミサにあずかれないけれどもう一人別のベトナム人の志願者がいらっしゃるそうです。

     ・今日はエルベ(Herve)神学生の30歳のお誕生日でした。ミサの中でもエルベ神学生に神様のお恵みがあるように意向がささげられました。おめでとうございます。エルベ神学生はジョニー神父様と同じコンゴ民主共和国の出身で、来日後しばらくの間大阪の富田林で過ごし昨秋より姫路教会に隣接の淳心会本部にお住まいです。ご両親とご兄弟は故郷にてご健在です。

     ・3月1日(日)10時のミサの中で四旬節の黙想会があります。

      テーマは「回心して福音を信じなさい」

      講師はジョニー神父様 

      どなたでもごミサとミサの中で行われる黙想会にご参加いただけます。10時より少し前にカトリック姫路教会にお越しください。扉を開けて中に入ると、正面に聖歌集や聖書と典礼が置かれたテーブルがあります。必要な資料を受け取ったらそのまま中へ進み、自由に着席してください。初めての方や案内が必要な方はそのテーブル付近にたいてい宣教チームのスタッフが立ってくれているので声をかけてみてください。

     ・ゆるしの秘跡促進旬間がはじまっています。日曜日に受けることが難しい場合、主任司祭に申し出れば任意の日時にも可能です。

    ◆感想

     み言葉を武器に悪を打ち負かすというフレーズに衝撃を受けました。武力ではなく、み言葉でもって悪魔を退ける。み言葉が大切だということは、きっとこれまでも教会で何回も聞いたことがあるはずですが、わたしの右耳から左耳へ抜けていくだけだったのでしょうか、ピンとくることがなかったかもしれません。今日ジョニー神父様から「み言葉を武器に悪に打ち勝ってまいりましょう」とミサ冒頭とお説教でも聞かされ、初めてハッとしました。

     キリスト者に与えられた強さとは、神様の教えでもって善悪を判断し、み言葉でもって悪の力に打ち勝つことができるということなのでしょう。社会の不正や、弱い人はさらに弱い立場へ追いやられる悪しき構造などに対して、おかしいと声を上げる人間でありたいしあらねばならないと思いました。無力さにさいなまれる必要はなく、私たちには力がある。キリストの教えを試金石にして世の中を見分け、み言葉を語ることで悪を退ける力がある。

     悪魔である蛇が人間を誘惑に陥らせるとき「不満」を利用したというくだりは、背筋が寒くなる話でした。私が連想した悪魔の仕業は戦争です。戦争は突然始まるわけではなく、戦争をするための準備が周到になされるのです。今月行われた衆議院選挙では、政治や国のリーダーに対する国民の不満が高まる中、不満の矛先が弱い立場の人たちや外国人に向けられ、めくらましの政策論争が繰り広げられました。結果的に戦争を可能にする国作りに進む政権を容認するような結果となりました。不満が利用されたのです。現代社会にも悪魔の誘惑はあります。私たちキリスト者は神様から善悪を判断する知恵と、悪に打ち勝つ武器としてみ言葉をいただいています。私にある力を認め、少しでも力を発揮できるように勇気を出したいとおもいました。

  • 2026.02.15 わたしが来たのは律法や預言者を・・・・完成するためである

    ◆第一朗読 シラ書 シラ15.15-20

    ◆第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 コリント2.6-10

    ◆第三朗読 マタイによる福音 マタイ5.17-37

    ◆ジョニー神父様のお説教

     今日の福音からどんなメッセージを受け取ることができるでしょうか。第一朗読では、神はいつでも人間の自由を尊重するということが書かれている。

     神は人に罪を犯す許可を与えてはいない。信仰は自由であり、好きなことをしてもよい。しかし悪を避け、善を行わなければならない。そのことを守らないと死に至るが、戒めを守れば神の国に入る。

     そのことを守るのも守らないのも人間、私たち一人一人の自由意思にゆだねられている。ジョニー神父も皆さんに向かって説教をするが、警察官のように皆さんを監視したり取り締まったりはしない。つまり、私たちの行動は、一人一人の自由意思と責任において行われているのです。

     第二朗読では、人間には選択する自由があるということが書かれている。

     第三朗読では、律法に書かれていることがその言葉にとらわれて形だけで守られることよりももっと深い意味で理解され、本当の意味で悪を避けるようにと説いておられる。例えば十戒では、「殺すな」と書いてある。相手の息を止めてしまう、血を流させることをしないことはもちろん重要だが、その前に、相手を憎むことがなければその先に殺そうとすることもないはずである。怒りや憎しみを抱くことがないようにすれば殺人もしないで済む。

     「姦淫するな」と命じられているが、イエスはもっと深い意味でその行為を悪としておられる。行為そのもの以前に、みだらな思いを持って相手を見る、妄想も悪だと言われている。

     文字通り、型通りに規則を守ることだけでは完全ではなく、その規則の意味する精神にも思いいたし、その精神を守るようにと説いておられるのです。

    ◆感想

     規則が規則だからという理由だけで厳密に守られることだけを優先させたら本末転倒である。規則の意図をくみ取り精神を守ることが重要ということでしょうか。

     ジョニー神父様はしばしばご聖体をいただくときの私たちの心の状態が、ご聖体をいただくのにふさわしい状態であるかどうかと問いかけられます。教会に来てごミサにあずかり、ご聖体をいただくというときに、心が荒れていたり、人を許せずかたくななままであることには矛盾があります。そのような矛盾を引き起こさないために、私たちの行いと心が一致しているかを点検することが大事だよということでしょうか。ご聖体をお迎えするときの心の状態にも気を付けたいです。

     律法や規則の言葉にはその言葉が表すより深い意味が内在しています。その深い意味の精神を理解し、行為とその精神が矛盾しないかということを考え、人間の自由意思において行動するようにということが大事だと言われていると思いました。

    ◆トピックス 週報より

     灰の水曜日のミサは2月18日(水)10:00と19:00です。

  • 2026.02.08 あなたがたは地の塩・・・・・世の光である

    ◆第一朗読 イザヤの預言 イザヤ58.7-10

    ◆第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 コリント2.1-5

    ◆第三朗読 マタイによる福音 マタイ5.13-16

    ◆ギャリー神父様のお説教

     イエスは弟子たちに向かって、あなたがたは地の塩である。と語られたが、これは「あなたがたは地の塩になりなさい」と言われなかったことに注目してほしい。つまり、私たちは人間である、人間一人一人の存在それ自体がすでに「地の塩」だということを言われているのです。

     「あなたがたは世の光である」といわれた。光といえば、ギャリー神父は故郷フィリッピンのクリスマスを思い出す。クリスマスツリーに灯される灯りの一つ一つが光り輝いていて、とてもきれいだった。その灯りの色も明るさも一つ一つ違う。青色で強く光る灯りやオレンジ色でやさしく光る灯りなど。

     大切なことは、みんなクリスマスツリーを飾るひかり輝く灯りであること。その色や明るさが違っていても、みんな同じ灯りです。大切な灯りだから、自分も一生懸命光る。そして、となりの灯りの光も大切にして調和しながら大きなきれいな光の輪になり、その輪が広がる。人間もこのあかりと同じです。私たちはみんな神様によって作られた人間です。一人一人の才能や個性は違っていても、みんな同じ人間です。自分なりの輝きを大切にして、そしてとなりの人の輝きも大切にして、一緒に輝く、その輪が広がる。

     神様が作られた人間である私たちは、自分たちを大事にして、となりの人のことも大事にして、互いに認め合うように招かれています。

    ◆感想

     あなたがたは地の塩 世の光である。とはよく聞く聖句。今日この言葉を聞くと、人間が人間らしさを失ってはいけないという意味に聞こえてくる。ギャリー神父様に倣って、わたしもクリスマスツリーの灯りを思い出してみた。現代のLEDのシャープな輝きではなく、当時はナツメ球の温かみのあるおもちゃのような輝きでした。当時、その光を眺めるとクリスマスの特別なわくわくした気持ちになったことを思い出します。

     あなたがたは世の光であると言われてみて、あの灯りに自分を重ねてみたらなんだか懐かしさとうれしさがあふれてくる気がしました。自分を大切に、そして身の回りにいる人たちを大切に、その大切の輪を広げていけば世界は一つになる。いみじくも今日は衆議院選挙の投開票日。結果にくらーくなってしまいがちな私に今一番の薬は、「あなたは地の塩、世の光であり、あの人も同じである。互いに尊重しあおう」という神様からの励ましだったりする。

  • 番外編 2026.02.07 えのきりょうの衆議院議員選挙に向けてのつぶやき

     大義がないまま衆議院が解散され、総選挙となりました。投開票を待たずして、自民党が過半数を大きく超える議席をとる勢いとの予測もあります。そうなったときには、高市総理は民意を得たとばかりにさらに暴走し、これまで以上にやりたい放題をすることになります。日本国憲法を改正し、日本を再び戦争をする国に変身させ、非核三原則はなかったものにされ、軍事産業にどんどんお金をつぎ込み、スパイ防止法も成立。結果として国民はますます貧乏になり、人生は金と戦争、裏切り者扱いされることへの恐怖に支配されることになります。神の国の実現に遠ざかる一方だと思います。

     そうならないためには、自民党と維新の党に議席を与えてはならないと思います。私は、自民・維新と反対の立場をとる政党の議席を増やしたいと思い今回の投票先を検討しています。明確に憲法を尊重し、戦争はいけないと明言しているのは、共産党、社民党、れいわ新選組くらいでしょうか。ここでも最悪なのが自民党で、高市総理は「国民はときには国のために命を投げ出して」と国家のために命を捨てることをあるべき姿として私たちにおねだりしています。とんでもないことだと私は思います。

     私の住む選挙区では今回自民、維新、国民民主、参政、共産が立候補しています。ここは何としても共産党に期待したいですが、予測によると話にならないくらい議席獲得は難しそうです。焦ります。

     焦りの果てに私は、今日は勇気を出して大石あき子氏の事務所が募集している選挙ボランティアに参加することにしました。ボランティアは主に「電話かけ」と「街宣 チラシ配り」の2種類あり、短い時間でしたが多くのことを考えたり感じることができました。

     「街宣 チラシ配り」は、スーパーの前でお買い物客に「大石あき子です。」と紹介しながらチラシを渡すのですが、たいていチラシは受け取ってもらえない、いやそうな顔をしながら断られるという対応が多く身がすくむ思いがしました。一方ではごくごく少数の方から「大石さんに入れるよ」とか「大丈夫。もう入れてきたよ」と声をかけていただき、こちらの緊張も緩みました。また、チラシを受け取りながら今の政治への怒りを語ってくださる方もあり、選挙ボランティア初体験の私にとってまさに未知との遭遇くらいに発見に満ちた1日でした。今回参加してみて初めて選挙ボランティアという方の存在と活動の実態を知ることになり、色々衝撃を受けました。常連ボランティアさんたちは交通費(本日の常連ボランティアさんの何人かは他県から新幹線で)はもちろんのことすべて自腹で駆けつけて、党を応援する熱い思いでもって寒空の中何時間も、塩対応にめげずにチラシを配り、しっかり大石あき子を紹介し、明るく感謝を述べるのです。選挙がいかにボランティアさんによって支えられているのかということがわかり、支持母体がある政党が選挙に強いことに納得がいきました。れいわは100パーセント草の根の支持者によるボランティアです。この少数精鋭の方々の活動を目の当たりにしたことが私にとって大きな刺激であり、学ばせていただいたことが収穫でした。

     夜は常連ボランティアさんにお願いして一緒に山本太郎氏の街頭演説を聞きにつれて行っていただきました。19:20~開始のところ、1時間前から聴衆が集まり始め、大阪駅御堂筋北口の一角は山本太郎氏を待つ人であふれ、登壇の際は大きな拍手で迎えられていました。

     初めて生で見た山本太郎氏の演説は、胸を打つものでした。

     正直で嘘や偽りはない、人間が人間として大切にされる社会を作りたいという当たり前の話でした。当たり前のことを言っているだけなのに胸に響くのは、この当たり前のことをほかの政治家が誰も言ってくれなかったから。山本太郎氏は40分間休む暇なく訴えかけ続け、聴衆からも熱のこもった掛け声が飛び、比例はれいわと約束して締めくくられました。ユーチューブで2026.02.07大阪駅街頭演説が見られると思うのでご参照くださいましたら幸いです。

     政治音痴の私でもここまで焦る、今回の選挙は相当危険な分岐点にあると思います。神様の教えにかなう生き方を実現できるためには、とにかく戦争を肯定しないこと。

     国民が平和を願い、その実現を祈るとき、神様の力が私たちに働いてみ心に適う結果へと導かれますように。アーメン。

     

  • 2026.02.01 心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである

    ◆第一朗読 ゼファニヤの預言 2.3,3.12-13

    ◆第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 コリント1.26-26-31

    ◆マタイによる福音 マタイ5.1-12

    ◆ジョニー神父様のお説教

     第一朗読では、イスラエルの民が罰としてアッシリアへ連れていかれたがその中でも苦しみに耐えた人たちは助けられたという場面が書いてある。苦しみに耐えた人たちとは「貧しい人たち」「へりくだる柔和な人たち」とも同じ意味です。なぜこの「貧しい人たち」は助かったのか?

     答えは、貧しい人たちは神様の言うことをきいたからです。

     第三朗読では、イエスは小高い丘に登って群衆を前にして、神様の教えを説かれた。この場面は「山上の説教」と呼ばれています。

     ここでイエスは最初に、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と話されました。人が幸せになるためには心の貧しい人になるようにしなさいと教えられたのです。この「心が貧しい」という表現には誤解がないようにすこし説明が必要かもしれません。「心が貧しい」という言葉は、心が豊かな人という意味の逆ではないのです。もともとはヘブライ語で、「自分の貧しさをしっている態度、心のありかた」という意味になります。

     一番豊かなのは神様です。それに比べて人間は完全な存在ではありません。足りないのです。そんな人間にとっての救いはどこからくるのでしょうか。

     救いはイエスキリストから来ます。救いはイエスのお恵みによるものなのです。

     お恵みとは、モノではありません。どんなにモノを持っていても自分が何のために生きているの分からなくて苦しんでいる人もいる。

     イエスは、私たちが神からお恵みをいただくためには神に忠実であるように、「心の貧しい人」でありなさいと教えてくださっています。私たちを救うのはモノや金や肩書ではない。そのようなものに心を支配されているならこの世でもあの世でも幸せにはならないということを神はいつも静かにずっと語りかけておられます。

     私たちは、生きていて苦しいことや悲しいことがあって悩むこともあるでしょう。その苦しみや悲しみの中でも神様に向かって祈り、前向きに生きるとき、私たちは自分が小さくて、神様を必要としている存在(=心が貧しい)であることに気づいてますます神様を求め、信じます。本当の幸せとは神様と向き合ってしっかりつながっていることなのです。

    ◆感想

     ジョニー神父様は先週日曜日から復帰されています。おかえりなさい。

     「心の貧しい人は幸いである」とは有名な聖句であり、昔からよく目にしました。しかし、「心の貧しい」という言葉に違和感があり、今一つ腑に落ちない聖句でもありました。心が貧しいというのは、心に余裕がないギスギスした状態の心を持つ人だと思っていたのです。

     今日のお説教で腑に落ちるところがありました。心の貧しい人というのは、自分の足りなさを自覚する謙虚な心をもつ人であり、その人は自分が救われるためには神の助けが必要であると自覚して、神により頼み祈る。そのように神に向き合う人は幸せになるということだと理解しました。

     お説教では心の貧しい人を中心にお話しされましたが、個人的には「平和を実現する人々は、幸いである」について神父様のお話を聞いてみたかったです。日本は今まさに2月8日の衆議院議員総選挙に向けて各党の選挙戦の真っただ中にあります。不戦の誓いや平和について真剣に語る政党があまりに少なく今回の選挙はこれまでにないレベルで心がざわざわするものになっています。カトリック教会はカルト集団ではありません。なので、幸いなことにカトリック教会は信者に対してどの政党に票を投じたらよいのか指南しません。そのことは至極当然のことで大切なことです。しかし、カトリック教会がどのようなスタンスや手法で正義と平和を実現させようとしているのか具体的なアクションが信者に見えていないとしたら、信仰生活と現実生活の乖離が生じてしまうことがあるのではないかと懸念します。たとえば、カトリック教会に熱心に通っているのに選挙では軍拡まっしぐらの政党に票をいれるみたいな・・・。もっといえば、およそカトリックの教えとは程遠いと思われる言説を述べる政治家がカトリック信者である例もあります。

     カトリック教会において、正義と平和をつくる取り組みの活動は個々の教会の考えや事情により活発だったりなかったりするのが現実で、多くの場合あまり関心が寄せられていない気がします。カトリック姫路教会の活動の実態はわたしが知らないだけで実は活発に活動がなされているかもしれません。この辺りも今後関心を持ってみていきたいです。

     私は、絶対に日本が同じ過ちを犯さないように、私たちの子どもや孫が戦場に送り出されることがないように願いながら、神様の教えに照らし合わせて考えながら一票を投じるつもりです。

    ◆トピックス

     2月11日(水)は世界病者の日です。病人がふさわしい援助が受けられるように、また苦しんでいる人が自らの苦しみの意味を受け止めていくための必要な助けを得られるように祈る日です。カトリック姫路教会では午後6時のミサで祈りがささげられます。望まれる方は「病者の塗油」を受けることができます。

  • 2026.01.18 見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ

    ◆第一朗読 イザヤの預言 イザヤ49.3,5-6

    ◆第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 1コリント1.1-3

    ◆第三朗読 ヨハネによる福音 ヨハネ1.29-34

    ◆ハルノコ神父様のお説教

     今日は子どもたちが前の席にたくさん座っているようにみえます。ミサの前はどんな話をしようかと考えていましたが、子どもたちがたくさんいるので今日は子どもたちに向けて話をしようと思います。子供たちといえば、今日は姫路教会の両隣にある賢明女子学院と淳心学院の中学入学試験です。さらに日本の高校生にとっては、昨日も今日も大学の共通テストの日でもあります。一生懸命頑張っている子どもたちに神様の力が働いて、良い道を歩めますようにお祈ります。

     今日の福音で登場するイエス様のお友達は誰でしょう?きっとみんな聞いたことがあると思います。それは・・・

     

     洗礼者ヨハネです。

     洗礼者ヨハネは人々に洗礼を授ける役割の人でした。洗礼を授けるときに必要なのはお水です。この水という言葉を聞いて、みんなは何を思い浮かべますか?毎日水を使いながら皆さんは何をしますか?・・・そうですね。大事な飲む水、お風呂の水、生きることに欠かせない、なくてはならないものです。私たちの命に不可欠な水の、別の顔は何でしょう。・・・そうです。津波とか洪水とか、こわいものです。命を奪うこともときにあり、東日本大震災の時も津波で多くの人々が亡くなりました。

     この水でヨハネは洗礼を授けますが、どうやって洗礼を行うのでしょうか。受洗者の頭にピュッと少量の水を振りかけるのか、それともジャーと大量の水を流すのでしょうか? 皆さんは自分たちの洗礼のことを当時は赤ちゃんだったので覚えていないかもしれないですが、大体今は額に水を少し流します。でも、イエス様の時代、洗礼はどこで行われていたでしょうか?川です。何という名前の川か知っていますか?・・・

     小学生の男の子:「ヨルダン川」

     そう、すごい。正解です。ヨルダン川です!

     ヨルダン川で洗礼者ヨハネは洗礼を行っていました。水泳をしたことがある子供たちはいますか?水に顔をつけられますか?顔を水に漬けたらどうなるでしょうか。

     イエスの時代の洗礼は、川の水に沈める形で行われるので顔は水の中に入って、息ができなくなりました。だから水から顔を出したときには大きな大きな呼吸をするので生まれ変わったような気持ちになりました。

     洗礼者ヨハネは、イエス様が洗礼を受けにやってくるのをみて「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである。」といいました。そして、イエス様のことを神の子と証して、素晴らしい人であると皆に伝えたのです。こうして洗礼者ヨハネはイエスさまのことを、つまり自分の友達のことをほめたたえました。お友達にこのような態度をとったのです。お友達は自分の友達のことは悪く言わず、大切にします。子どもたちも自分の友達のことは悪く言ったりひどい評判を与えたりしないでしょう。お友達のことを悪く言わないと約束できますか?大人たちにも同じことを問います。お友達のことを悪く言わないと約束してくださるでしょうか?おとなの皆様が約束をする姿を子供たちが見て、子どもたちもまたそれに倣うので、大人の皆様の姿勢を見てもらうことは子どもたちにとってもお手本や励ましになります。

     子どもたちも大人の皆さんもたくさん手を挙げてくれて、ありがとうございます。

    ◆感想

     先週に続く洗礼者ヨハネのお話でした。今日から教会学校の三学期が始まり、子どもたちがたくさんいるようにみえました。神父様は子どもたちがたくさん前のほうに座っているので子どもにわかりやすく話をしてくださいまいました。そして、神父様の問いかけに小学生の男の子が「ヨルダン川」とはっきり大きな声で答えていて、すがすがしかったです。この小学生の姿に励まされ、大人の信徒の反応もよくなり、リラックスした雰囲気で大切なポイントをおさえることができました。イエス様の時代の洗礼はヨルダン川で行われていたこと。川の水に沈められる形で洗礼を受けていたこと。深呼吸は本当に必然の深い息だったことなどを想像しました。そして、洗礼者ヨハネがイエスを神の子と証したことを思い起こしました。

     洗礼はやはりあらたな命を吹き込まれ、これまでとは違う自分になるということだと思いました。イエスを知るとこれまでとは同じ自分ではいられなくなるということ。この間からこのことについて何度も繰り返し聞かされている気がします。

    ◆トピックス

    朝7時のミサは、平日は1月27日(火)から、日曜日は2月1日(日)より再開されます。