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  • 2025.7.6

    行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす(ルカ10.3)

    ◆第一朗読 イザヤの予言 イザヤ66.10-14

    ◆第二朗読 使徒パウロのガラテヤの教会への手紙 ガラテヤ6.14-18

    ◆第三朗読 ルカによる福音 ルカ10.1-12、17-20

    ◆神父様のお説教

     エルサレムという名前が出てくるとき、今のエルサレムに神殿が建てられたという事実もあるが、それよりも神の教えに従う人が集まる場所のことをエルサレムという言葉で表されていると理解してほしい。神様はイスラエルの民に怒って彼らを故郷ではない場所へ連れていかれた。人にとって外国に暮らすことは簡単なことではなく、苦労や困難がつきものであり、もろい。でも神様は罪に対して罰を与えながらもなお彼らを愛された。

     第三朗読にある「収穫は多いが、働き手が少ない。収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなた方を遣わす。」とある。神父が少ないので召命のためにお祈りしてくださいということだが、現代の教会が直面している現状はもっと深刻である。先日大阪高松大司教区の会議の中で、ジョニー神父は「召命」分科会に出席したが、15名の聖職者のうち10人が外国籍の人だった。なぜ召命を選んだかというと、現在淳心会の若い修道者を預かる任務があることと、なぜ日本の教会なのに日本人の聖職者が少ないのか知りたいと思ったから。

     ここ姫路教会では隣に淳心会の修道院があり、戦後75年間の間、ミサを上げてきているがこの教会からたったひとりも神父になろうとする人がいなかったという事実は理解に苦しむ。この先日本には、日本人の神父様もそのうち司教様もいなくなるかもしれないことを信徒が考え、どうしたらよいか考えなくてはいけない。正直な話、外国人がいつまでも日本の教会のために世話を焼いてくれることは期待できないかもしれない。中国では外国人宣教師は中国で宣教することはできないし、行くこともできない。その意味で日本ではまだ外国人宣教師は入国が可能であるし歓迎されているが、あくまで外国人は日本の教会のことを日本人ほどは心配することはできないし、いつか日本から出ていかなくてはいけないことになるかもしれない。日本の教会のことを日本人が考え、心配することは当然である。昨年フランスでは16名の司祭が叙階された。コンゴではもっと多くの司祭が叙階されている。日本は・・・ゼロです。来月からジョニー神父は帰国するが、その間の姫路教会のミサをたててくださる神父様の確保の見通しはまだついていない。朝7時のミサはその間なくなることは決定している。

     召命者のため、聖職者のためにもっとお祈りしましょう。子供たちの召命を親は妨げてはならない。子供が自分の頭で考えて答えを出すまで親はサポートする必要がある。シスターになること、司祭になること、子供たちも全く考えないわけではなくて、少し考えてみてほしい。お祈りというとき、書かれてある文章を読むだけは祈りではない。聖書と典礼の共同祈願では、例文として書いてある文章はあるが、「例文」と書いてある。それを読み上げるだけでは足りない。自分の口で、自分の言葉にしてお祈りをささげてほしい。

    ◆感想

     先細りが心配な日本の教会。その対策はなにもなされていない。何かできることがあるかも気が付いていませんでした。もっと真剣に聖職者を輩出することを自分のこととして考えないといけません。反省。例えば、「一粒会」の献金にも無関心でした。反省。聖職者になろうとする人にもっと尊敬の念を払うべきでした。反省反省。我々の無関心が招いた結果だと神父様はおっしゃりたいのでしょう。ジョニー神父様はこうもおっしゃりました。「神は神父のなり手を天から雨のように降らせてはくれませんよ。」ごもっともです。でもどこかで私たちはそう思い込んできたのです。教会に豊かな人材があり、人々の交流も活発で、若い力もあふれていた頃、そんな心配をしないでのんきに過ごしていたのです。そして今、気が付けば教会は元気がなくなっていました。教会だけではなく、修道者も減少し、カトリック校も、カトリック法人立の病院も、先細りの一途にあります。未来を生きる人のためにも、大人はぼんやりと眺めているだけではいけないなという気持ちになりました。

     ミサの中でジョニー神父様はスマイルちゃんにむかって、「シスタースマイルっていうのはどう?考えてみたことない?」とかたりかけ、「ヨゼフ、ヨゼフ神父になることは考えたことない?」と語り掛けられました。子供たちはピンとこなかったかもしれないですが、そのような語り掛けが種となり、何かのきっかけで発芽して、成長し実を結ぶことがあるかもしれません。大人ができることは子どもたちの邪魔をせず、見守り、子供たちが考えられる人になっていくのを応援することです。

     ジョニー神父様から、自分の口から自分の言葉でお祈りできることを求められました。そのお説教の直後の共同祈願では、先日初聖体を受けた小学三年生の男の子が自分の口から自分のことばで考えたお祈りを唱えていました。

     K君のお祈り:ぼくたちは、先月22日に初聖体の秘跡にあずかりました。教会学校で神様のことを勉強して、ご聖体をうけて本当にうれしかったです。おとうさんとおかあさんからもお祝いしてもらいうれしかったです。ぼくたちのためにお祈りして応援してくださった神父様と教会の皆様に感謝します。これからもぼくたちが神様といつもいっしょにいられるようにお導きください。

  • 2025.6.22 キリストの聖体

    メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来た

    ◆第一朗読 創世記 14.18-20

    ◆第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 11.23-26

    ◆第三朗読 ルカによる福音 ルカ9.11-17

    ◆神父様のお説教

     今日は一人の幼児洗礼と4人の初聖体があります。

    ジョニー神父も39年前、12歳で初聖体を受けました。当時志願者は300人もいて、カテキズムを学び、初聖体前夜には教会に泊まって、初聖体を受ける喜びでとてもワクワクしていたことを思い出します。今日洗礼を受ける幼児も、初聖体を受ける小学生たちも今日の洗礼のことは全く記憶がないし、何もわからないまま洗礼を受けたことになる。そこで親たちと周りの大人たちの責任は重大である。なぜなら子どもは親と教会の信徒たちによって教育されることになるからです。アフリカには、子供はおなかの中にいるときは母親のもので、生まれると社会のみんなのものになるということわざがある。この子供たちを皆さんで育ててください。

     ご聖体になるパンは特に大きいものと、大きいものと、普段皆さんがいただくものくらいの大きさのものと3種類ある。今日は特別に大きな(風月堂のゴーフルくらいの大きさ)ものを用意しましたが、大きさにはあまり意味はない。大きいと祭壇から離れている人にも見えやすいというくらいのことです。このパンは大きさよりも意味が大切です。ミサの中で聖変化が起きてパンがご聖体になる、ぶどう酒がおん血になるというミステリー、信仰の神秘です。ミサで使われるぶどう酒には特別なルールがあり、普通のワインで代用した場合そのミサは厳密にいうと無効になる。ご聖体をいただき、おん血をいただくということは、私たちに信仰が求められる。洗礼の秘跡や初聖体の秘跡は生涯に一度きり受けることになるが、ご聖体をいただくことは何回も受けることができる。そのご聖体をいただくときは私たちは自分の心をチェックして、ご聖体をいただくのにふさわしい自分であるかということを確認する必要があります。日本で時々体験することに、長年教会から離れていてご聖体をいただくときの作法をすっかり忘れたひとが、葬儀ミサなどの機会にミサにあずかり拝領することがある。そのような場合はご聖体をいただくよりも祝福を受けるほうがよいかもしれない。ご聖体を受ける作法とは、利き手を反対の手のひらの下に重ねてご聖体を受け、利き手でもって口に運ぶか、もしくは司祭から直接口で受けるかどちらかの方法になる。ご聖体を口で直接受けることは信者の権利であり、守られない場合は信徒は異議を申し立てることができる。手で受けても口で受けてもいずれの場合も、司祭が「キリストの御からだ」と唱えるときに「アーメン」とはっきりと声に出し応答しなければならない。ご聖体をいただくのにふさわしい自分かどうかをチェックしてもしもまだ十分でないと思う場合は、ご聖体を拝領するよりも司祭の祝福を受けるにとどめることが賢明かもしれない。ベトナム人の信徒の中にそのカテキズムを忠実に守っている人を見かけることがある。心が整えばご聖体をいただくチャンスはまた次週あるので大丈夫です。

     初聖体を受ける子どもたちは、これから喜んでごミサに参加してご聖体を受けてください。いい子になるように、人を許してあげることができるように、神様の子供として生きられるようになりましょう。一致、平和、愛であるように、子供たちのためにも祈りましょう。

     教会学校のリーダーたちはよく頑張って指導してきました。その頑張りには感謝しますが、子供たちの信仰教育はそれだけでは全然足りないということも理解しておく必要がある。子供たちの本当の先生は親です。あとは親たちが頑張らなければならない。洗礼を受けたときのこと、初聖体を受けたときのことを折に触れて子供に話して聞かせたり、記念日として毎年思い出したり、親たちが子供たちを励まし、導いていけるように親たちのためにも祈りましょう。子供たちは今日という6月22日を覚えていてください。

    ◆感想

     初聖体をうける子供たちは緊張しながらも喜びに包まれていて、その姿は初々しく素敵でした。私たち大人が彼らに共同体の中ではぐくまれる喜びを感じさせることができるようにならねばならないと思いました。ジョニー神父様が言われる通り、将来彼らのうちの一人が姫路教会の代表になっているかもしれない。そんな未来を想像するとワクワクします。ごミサのあとお祝いのパーティがありました。信徒の有志が作ってくださったカレーをいただいて、とてもおいしかったです。

  • 2025.06.15 三位一体の主日

    主は、その道の初めに私を造られた

    ◆第一朗読 箴言8.22-31

    ◆第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ5.1-5

    ◆第三朗読 ヨハネによる福音 ヨハネ16.12-15

    ◆神父様のお説教

     三位一体を説明するのは難しい。日本語でもどこの国の言葉でもこのことを説明することは難しい。あまり説明しすぎないように気を付けようと思う。なぜなら説明しすぎると異端になるかもしれない。また来日して間がないころ、政治の世界でこの言葉を使っているのを聞いたことがる。(小泉総理大臣の時 (1)国庫補助負担金の廃止・縮減、 (2)地方交付税の縮小、 (3)地方への税源移譲、の三つを一体でおこなおうというものです。 2003年の6月27日に閣議決定された、小泉内閣の 「骨太の方針第3弾」 で、その内容が示されました。 「補助金」は公共事業などを誘導する「ひもつき行政」にも使われ、その改善の要望がだされてきました。)

     「聖書と典礼」2ページ目に書いてある通り、きょうの三位一体の主日は、キリストの受難、死、復活、聖霊降臨という救いのみわざを通して示された神のいのちの神秘を祝うものです。父である神は、みことばである御子イエスと聖霊を遣わして、ご自身を現わしてくださったのです。

     神様はそれぞれのペルソナ(仮面)を持ち、父である神、子である神、聖霊である神になる。その3つが揃うときのみ神になる。その3つは永遠に横並びに一つになっている。どれか一つが前になったり後になったりするのではなく、常に一つ。

    ◆トピックス

    今日は父の日のためのミサでした。教会学校の子供たちが典礼奉仕をしました。また、ミサの中で神父様が父である男性すべてに前に出てくるように呼びかけられ、たくさんの男性が祭壇の前に並んで神父さまの祝福を受けました。

     その後、子供がミサに参加しているお父さんたちは子供から手紙のプレゼントを受け取りました。

    ◆感想

     三位一体は政治でも使われましたが、我々がカトリック教会の教えにのっとって理解する三位一体とは違うものです。三つのものが揃って一つになり、そこで真価が発揮されるというイメージでこの言葉は魅力的で様々な場面で使われています。父と子と聖霊との御名によってといいながら十字架を切りますが、十字架を切るたびにこの言葉を味わいたいと思いました。

     

  • 2025.06.08 聖霊降臨の主日

    炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった

    ◆第一朗読 使徒たちの宣教 使徒言行録2.1-11

     第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ8.8-17

     第三朗読 ヨハネによる福音 ヨハネ14.15-16,23-26

    ◆神父様のお説教

     聖霊降臨の主日なので、復活節はこれまで、来週は年間の主日に戻ります。みんなが家の中に集まっていたところに突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえた。弟子たちはエルサレムの町の一つの家の中に集まって中にいた、その理由はイエスのように捕まえられて殺されるのではないかと怖がり、みんなで集まって祈っていた。その弟子たちに聖霊が下り、ある人が自分の今日の言葉で話すと、聞いている弟子たちには自分たちの故郷の言葉で理解できたという場面。例えばジョニー神父はコンゴ出身なので、フランス語と今後の言葉で話すけど、聞いている日本の信徒の皆さんは日本語でその話を理解するということになる。

     この聖霊降臨の主日に思い出すのは21年前に神学生だった自分が富田林教会にて聖霊運動に参加した時のこと。当時はダニエル神父様(淳心会)もおられ、アメリカ出身のイエズス会の神父様が司式されるミサに一緒に参加し、とてもあたたかい体験になった。みんなが喜んでミサに参加し恵みを受け、豊かに交わった。それを思い出すと今の教会の皆さんはとても冷たいと思えてしまうくらい、あたたかい体験だったが、当時若く、神学生として日本にやってきたばかりの自分にとっては日本語を理解することに必死だったので聖霊の恵みは豊かに感じたが、そのお恵みが何を伝え、どう注いできたか正しく伝えることは難しい。聖霊の働きを疑うのではなく、自分の頭が日本語でいっぱいになっていた。

     聖霊は神様の力なので、家の中にいる人だけではなく、家の外にいる人にまで及んだ。家の外から集まってきた人たちはあらゆる国から巡礼にきた人たちなので、多様な民族がいた。多様な民族は教会の普遍性を現わしている。聖霊が下ると弟子たちも影響され、聖霊による一致を感じ、聖霊が自分たちといつも一緒にいてくれることを感じてもう怖くなくなった。勇気をだして、外へ宣教に出ることができた。その結果教会が作られることになった。弟子たちが内向き内向きに固まっていくのではなく、外へ外へ向かった、開かれるように成長したことで結果的に教会が作られた。私たちはこの弟子たちのように自分の中だけにとどまるのではなく、外へ外へできるだけ開かれていくように成長するように促されている。

     聖霊は弁護者と呼ばれている。弁護士は裁判で悪いことをした人のためにとりなそうとして助けるために力になってくれる。父である神様は私たちが弱いことをご存じなので、私たちを助けようとしてとりなしてくれる弁護者として聖霊をつかわしてくださった。聖霊は新しい教えを伝えるのではなく、神様がすでに私たちに教えてくださったことを私たちが祈るときに来てくれて、思い出させてくれる。残念ながら、聖霊は目に見えないので私たちはこの聖霊を忘れがちである。だから、ろうそくの灯りを見ると聖霊を思い出したり、赤色の司祭服を見ると殉教者を象徴する色であることや聖霊を象徴する色としてきっかけを作って思い出すようにしなければならない。一番大切なことは、私たちが祈らないかぎり聖霊は働けない。聖霊が十分にはたらけるように、聖霊にチャンスを与えるために、私たちは祈らなければならない。聖霊の恵みが豊かに働くよう願いながら、祈りましょう。

    ◆感想

     神様は私たちに聖霊を送ってくださった。聖霊はイエスの教えを私たちが忘れないように思いださせてくれるので、私たちが聖霊に導かれて生きると神様から離れることはない。聖霊がその働きをするためにはチャンスを与えないとじゅうぶんに働けない。チャンスとは、私たちが祈ること。私たちが祈ると聖霊は私のところにきて、神様とつながり続けられるように守り導いてくれる。信じるということはこういうことなのかとうれしい、心強い気持ちになりました。「困ったときは神様に祈りなさい。祈るとかならず神さまが助けてくださる」というのは私の母の口癖。親の言いつけは神の声だそうです。(出典:カトリックかるた)信じるものは救われる。そのためには聖霊が豊かに働く必要があり、聖霊が豊かに働けるようにするということは、私たちが祈るということ。神に求め願い祈ることを知っている私たちは幸せだと思います。

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  • 2025.06.01 主の昇天

    イエスは天にいかれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる

    ◆第一朗読 使徒たちの宣教 使徒言行録1.1-11

    ◆第二朗読 ヘブライ人への手紙 ヘブライ9.24-28,10.19-23

    ◆第三朗読 ルカによる福音 ルカ24.46-53

    ◆ジョニー神父様のお説教

    第一日曜日なので恒例の子供のためのミサとなり、子供を前列に集めて説教がはじめられた。

    イエスは苦難を受けたあと、ご自分が生きておられることを数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたり彼らの前に現れ、神の国について話された。40日間私たちの前に現れて、それから天に昇られた。どうやってイエスが天に昇って行かれたかはわからない。はしごをかけて昇られたか、エレベーターのように昇られたか、どこにも書かれていない。しかし確実に言えることは、昇天は人間の力ではない、神様の力で行われたということである。

    イエスは昇天され、使徒たちが地上に残された。昇天したイエスから、地上に残る使徒たちにはミッションが与えられた。そのミッションとは、地上に残り、福音を宣教し、教会をたてて、イエスの教えを人々に教え続けるということ。このミッションは現在「シノドス」(ともに歩み、ともに福音を宣教する)として今も生きている。神の国の教えを伝えるのは神父やシスターだけではない。私たち一人一人が、自分の身近な共同体である家族の中で親は子に、子は親や自分の子供に、神の教えを聞かせたり見せたり手本を示しながら実践し、福音を広めていくことが求められている。大人たちは子供に積極的に、もっともっと神様の話をしてあげてください。

    イエスは天に昇って何をされたか。使徒信条に何をされたかが書いてある。

    使徒信条「天地の創造主、全能の父である神を信じます。

    父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
    主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
    ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、
    三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
    生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。

    聖霊を信じ、
    聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。
    アーメン。

    天に昇ったイエスは私たちを裁くだけではなく、私たちが救われるようにとりなしてくださっている。私たちのために祈ってくださっている。

    ◆感想

    主がどのように昇天されたか詳細な記述がないことは、そこに人間の力ではなく神様の力が働いているということを読み取るという神父様の解説に新鮮な発見がありました。人間としてお生まれになったイエス様ですが、聖書の中では人間には計り知れない神の力が及ぶことが描かれています。人の子だけど神の子であるという逆説的な関係性や描写には、実は重要で深い意味を読み取ることができるものではないかと感じました。

    仏教の考えでは、死者のたましいがこの世を離れるまでを四十九日として大切に法要をします。イエス様がこの世に再び現れて弟子たちと過ごされた期間が40日間というところと似ていて興味深かったです。

    ジョニー神父様は、こどものミサは子供たちが典礼奉仕をするのを大人たちがサポートするものですと言われました。子供のミサという言葉は、大人が子供のために何らかレベルを下げて与えるという図式をイメージしていましたが、そうではなく子供たちが主体的にミサに奉仕することを大人が助けてあげるというものであるということだそうです。これも逆説的な響きがあり、新鮮でした。今日の典礼奉仕も第一朗読、第二朗読ともに長い長い聖書の箇所でしたが、小学2年生と5年生がしっかりはっきり朗読し、4人の子供たちが共同祈願を唱え、立派でした。子供ではないですが、青年2人と神学生2名がジョニー神父様の司式のサポートに入り、奉仕するこころざしが豊かにあふれるごミサで喜びを感じました。

    ◆トピックス

    神父様から子供たちへ、6/15は父の日なので父あての手紙を書いてくるように神父様から子供たちに宿題が与えられました。その日も子供たちの典礼奉仕でお願いしたいと話されていました。

  • 2025.05.25 復活節第6主日

    聖霊が、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる

    ◆第一朗読 使徒たちの宣教 使徒言行録15.1-2,22-29

    ◆第二朗読 ヨハネの黙示 黙示録21.10-14,22-23

    ◆ヨハネによる福音 ヨハネ14.23-29

    ◆神父様のお説教

     まず忘れてはいけないことは、まだまだ復活節であるということ。ある人々がユダヤからアンティオキアに下ってきて、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていて、パウロやバルナバとの間に激しい意見の対立が生じた。それでパウロとバルナバと数名のものがエルサレムへ行き長老たちと協議した。使徒たちと長老たちはパウロとバルナバと一緒にアンティオキアに派遣する人物としてユダとシラスを選んで同行させて手紙を託してあることを伝えさせた。それは、割礼が人びとを救うのではなく、聖霊が人々を救うということ。割礼は男性にしかできない。神様は男性をだけを救うのではなく、男性も女性も、すべての人を救おうとされていた。そして聖霊と私たちは、という言葉には、聖霊を送ってくださった神様のメッセージが含まれている。すなわち、「聖霊と私たちは」、ということばは、「聖霊のお恵みが私たちの中に働いて」といことで、つまり「神様がそのようにおっしゃっている」ということになる。聖霊の働きやお恵みについては、この先のテーマ「聖霊降臨」で詳しく説明したいので今日は多くは語れない。

     第一朗読を黙想すると、今の姫路教会のことが思い浮かんでくる。国際的な多様性に富んでいるが、気を付けないとぶつかり合いがおこるかもしれない。意見が対立するときはアフリカでは互いにわかりやすい形で意見の相違を認めて意見を言い合うが、日本では意見が対立してもわかりにくく上手に目立たない形でけんかをすることがある。いろいろな人がいて意見があるときには対立や分裂しないように注意しないといけない。

     第二朗読では聖なる都エルサレムがでてくる。現代では私たちのローマカトリックの本山はローマのバチカンになるが、イエスの時代はエルサレムにあった。

    ◆感想 

    聖霊についてもっと知りたいと思いました。聖霊がはたらくということはどういうことなのか、目には見えない聖霊をどうしたら信じられるのか、聖霊についてはまた次回に詳しくお話していただけるので楽しみにしたいです。理由がわからなくても瞬間的に胸に何かこみあげてきたり考えるより先に涙がピュッと出たりするときはなんとなく聖霊が働いたと感じる時があります。もしかしたらいつも自分に働きかけてくれているお恵みが聖霊なのでしょうか??

    ◆トピックス

    今日は信徒総会がミサ前に開催された。例年ミサ後に開催されていたが、ミサ前に開催することで例年よりも多くの信徒が参加した。

    典礼・養成研修・宣教・後方・教会学校・社会活動・行事・結婚・葬儀・営繕・高齢病者訪問・財務・国際交流ベトナム、イングリッシュ・聖母奉献修道会といった各委員会の代表者が前に出て、神父様から任命された。任期は二年間。

  • 2025.5.18 復活節第5主日

    あなたがたに新しいおきてを与える。

    互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13.34より)

    第一朗読 使徒たちの宣教(使徒言行録14.21-27)

    第二朗読ヨハネの黙示(黙示録21.1-5)

    第三朗読ヨハネによる福音(ヨハネ13.31-33 34-35)

    まず、忘れていけないのは今はまだ復活節だということ。パウロとバルナバが宣教している。車も電車もない時代なので、宣教は歩いて長い時間をかけて長い距離を移動することになる。歩く以外には小舟があるが、小舟で大海原へでるのは覚悟が必要な危険なことだった。歩いて移動するので遠くて行き来が難しいいときに教会ごとに長老たちを任命し、任せた。現在の教会も教皇様から各国の司教様、国内の教区の司教、教区へと権限や指示が下りて任されている。教皇様や司教様のことは大事で、ミサの中でも毎回名前を唱えるが、信徒の皆さんは覚えているでしょうか。

    第二朗読は天国に行った時の話

    第三朗読はイエスが十字架につけられる前の話

    「あなたがたに新しいおきてを与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを皆が知るようになる。」

    ジョニー神父は皆様のことを愛しているので皆様も私のことを愛さなければいけない。教会ではジョニー神父はみなさんのことをみなさんと呼ぶが、ほかの国では皆さんではなくて、「兄弟姉妹」として、「ブラザー」「シスター」と呼ぶ。マザーテレサの本の中から愛することを呼び掛けている一文を紹介します。

    ◆感想

    互いに愛し合いなさいというよびかけはあまりに有名なことば。

  • 2025.05.11 世界召命祈願の日 ジョニー神父様のお説教

    ◆使徒たちの宣教 使徒現行力13.14-43.52

    ◆ヨハネの黙示委 黙示録7.9,14-17

    ◆ヨハネによる福音 ヨハネ10.27-30

     今日はよき羊飼いの主日と言われている。羊飼いの話をするためには、イエスの時代までさかのぼって想像してみる必要がある。羊が無事でいることは当たり前ではなかったその時代、羊の周りには危険が多かった。狼やほかの動物に襲われて食べられることもある。その羊を守るために羊飼いたちは杖を持ち、命の危険を顧みずに守るから、羊も羊飼いを信頼して従う。羊飼いは神様、羊は私たちのことである。

     神様の救いの計画には順番があった。一番はユダヤ人を救うこと。ユダヤ人以外の人を異邦人と呼んだ。ユダヤ人に受け入れられなかったから、パウロとバルナバは異邦人のほうへ行くといった。ユダヤ人は神様の計画では救われる人となっているが、救いの計画を受け入れることを自由に決断をした人は信仰に入ったが、その決断をする意思がない人はそうならなかった。信仰は自由意思に基づくものであり、前教皇様もそのことをよくおっしゃっておられた。神様を受け入れてみませんかとフリーな提案をして、提案を受け入れる人がいて、受け入れない人もいる。提案はフリーでなければならない。

     実際のところ、召命者は減っている。日本では教区の召命者のほとんどが外国籍の人である。日本という国は神父を受け入れてくれたから、召命を受けたものが日本に来て神様のことを教えることはできたが、それも召命を受けた人が来てくれるならという条件になる。召命を受けた人が来てよかったと思えなければそれもなくなる。そうなったら日本の教会、カトリック信徒の未来はどうなるのでしょうか。教会の隣にある修道会のシスターにはこれまで大変お世話になったが、その修道会も現在超高齢のシスター2人きりになってしまわれた。それでℍ教会の洗礼志願者がいても指導もできないので、昨年は他の教会のシスターに無理をお願いして助けてもらった。今年はジョニー神父も三か月帰国し不在にする。ますます指導者がいない。信徒たち自身が自分たちのこととして考えなければならない。

     ジョニー神父は自分の司祭への召命のきっかけの詳細は本日の「聖書と典礼」の最後のページに記事がある。召命は教会で生まれるものです。教会という建物ではなく、神様を信じる人たちの交わりのなかで生まれます。日本の教会の未来のためにも、信徒は召命を受けた人を受け入れて、励まして、支えてほしい。

     こどもたちに召命の恵みが働くこともある。そんな時は親が決めてしまうのはよくない。そのこどもに聖霊が働いてくださるように祈り、自由意思を尊重しなければならない。そして、召命を受けたら周りの人はサポートしなければならない。3人こどもがいる家庭では一人神様にささげてもいいのではないでしょうか。

     新しい教皇様がきまりました。レオ14世です。レオ14世の最初のメッセージにはシノドスがありました。ローマの人に向けて一緒にやりましょうというはたらきかけ。

     

    ◆トピックス

     今日は母の日のための子供ミサの日

     先唱・朗読・答唱詩編・共同祈願・奉納はすべて子供たちが行いました。また先週ミサの中で神父様から子供たちに母へのお手紙を書いてるよう「内緒のお願い」をされ、数人の子供が折り紙で作った花束やお手紙のプレゼントを持ってきていました。一人一人がお母さんにメッセージを読みながらお手紙をわたし、みんなでお祝いしました。すべての女性に神父様から祝福が授けられました。

     ◆感想

     ジョニー神父様は信仰教育が大事にされる家庭に生まれ、身近に司祭や宣教師、シスターが活動のあかしをされる環境でお育ちになりました。高校教師として勤め、あるとき司祭叙階のミサに侍者として奉仕したことが召命のきっかけになったそうです。召命はドラマチックだと思いました。神様の計画は計り知れないし、そのよびかけに「YES」というためには神父様が言われる通り様々な方面からのサポートがなければ難しいと思います。召命のお恵みを受けた人がいたら、もちろんサポートしたいと思います。そして、ジョニー神父様の出身国コンゴ民主主義人民共和国には婚姻の召命もあるとのこと。神様の声をきいて道を開いてゆく人は幸いな人と思います。

     

     

     

     

  • 希望と絶望の教え 四旬節の黙想会 カルメル会中川博道神父様「絶望の体験から~希望は欺かない」

    2025.03.四旬節黙想会/

    現在の画像に代替テキストがありません。ファイル名: pexels-photo-783200.jpeg

    四旬節に黙想しました。とても良いお話でした。いろいろ考えさせられ、慰められ、希望を見出しました。聞き間違いや取り違えているところがあるかもしれません。ご容赦ください。

    指導者:カルメル会 中川博道神父様 

    『絶望の体験から~希望は欺かない』 2025.03.四旬節黙想会

    私たちの学びはすべて神様とともに歩む答えの準備 主の教えてくださった道を歩む要約は主の教えてくださった祈りそのものです。 主の祈り♰唱えましょう

    2025年 聖年を迎え、希望の巡礼者というテーマがある

    2015年、神の慈しみが私たちの原点であるというメッセージがあった。

    希望の対極は絶望

    聖年を生きる手引き 教皇様が出された勅書「希望は欺かない」

    絶望と希望の間を歩む私たちがどう生きるかについてヒントがある

    希望に向かって巡礼するときその行先ははっきりしている。先日灰の水曜日では「あなたがたはちりであって、ちりにかえっていく」とはっきりいわれている。これが人生の枠組みである。死をも突き抜けてどう私たちが希望を持ち続けることができるのか。

    先輩宣教師から言われた言葉がつよく印象に残っている。それは、 「人生は火葬場の待合室です。火葬場の煙突をくぐりぬける時何ひとつ持たずすべてをそこにおろして神の前にでていくことになる。」確かな真実であり、 先に天国へ行った先輩たちの見守りを確かに感じる。

    勅書20番「死んで復活したキリストは私たちの信仰の心臓です」

    死を超えていくものがこの人生にあるのかと考えるときはじめて希望をもつことになる。

    自身の体験から  幼少期 突然暴れだした馬にめちゃくちゃに踏まれて内臓破裂 周囲の大人が慌てて救出後長く治療に専念し九死に一生を得た 

    原爆の記録フィルムから強烈な死の印象 原爆の熱で一瞬に焼け死んで影が石に焼き付いた人 あの人たちはどこに行ったのか

    ⇒死とはなにか? 「永遠に眠っている」「何もなくなる」イメージをもった。周囲の大人たちに質問しても明確に答える人はいなかった

    生きることの意味を問い続けた 死んだらおしまいの人生をどう生きるかが自分の中の問いになった。

    直接的な答えではないが、身近にカトリックの教えの影響があった 

    影響その1)カトリックかるた「アベアベマリア天のほし」 「海山  超えて宣教師」 「親の言いつけ神の声」 「エリヤのお迎え火の車」 「イエス様は優しいな」 

    影響その2)ミッションスクールに通う姉

    大学生になるとき 死んだらおしまいなら好きなことをして生きようと友達と話をしたが、神様がいるという人の存在も話題に上がり、友達と一緒に神の存在を確かめに教会へ行ってみることにした

    そこでこれまで自分が出会ったことのない人々と出会うことになった。

    人物その1)ドイツ人宣教師 成績はトップかつ芸術にも秀でて多才 多くの人に影響をあたえる指導者的存在 自分には見えないものを追いかけて生きていた 見えないものを見ていた

    人物その2)カルメル会修道女のシスターたち 観想修道会にクッキーを買いに行き出会った二人の修道女は明るくて穏やか喜びにあふれている 

    →この人の生きざまをみてみたい、この人の追いかけているものを見てみたいという思いに突き動かされた。

    キリストに出会いたいなら洗礼を受けるように言われているがそうなのですかと相談したら、こともなげに「それだけのことです」といわれた。洗礼を受けてもキリストに出会えるかどうかはわからないけどダメもとで洗礼を受けることを決心した。

    結果、洗礼はその後の自分の人生を変えた。自分の気がかりや大切にしたいことを変えていった。洗礼を受けて一年後、神様は本当にいるのと自問したときに、なんで疑うのという答えが自分の中から自然に湧きあがり自分でも驚いた。

    洗礼が何を私たちに与えてくれたのか 洗礼を受けるとはどういうことか

    参照 ヨハネの福音3章 ニコデモとイエスの対話 

    ニコデモ「イエスは貧しい大工職人なのに、イエスの生き方にこれまでに見たことがないものを見た。神がともにおられるのでなければあなたがなさるようなしるしを行うことはできない」

    イエス「はっきり言っておく 人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない。」

    ニコデモ「新たに生まれるとは、もう一回母の胎内にはいるのですか?」

    イエス「新たに生まれるとは、だれでも水と霊によって生まれなければ神の国に入ることはできない。水と霊によって生まれる、つまり洗礼のことである。洗礼を受けないと神の国に入ることはできない。」

    水と霊によって生まれる・・・洗礼

    神の国に入るということは神の国を体験する、一緒に生きること

    ヨハネ「信じる者がみな人の子によって永遠の命を得る為である」永遠のというのは死んでからという意味ではない。洗礼そのものが時間と空間を超えている 

    イエスを生かす神の命をいただく 神はご自分の命を分け与えるほどに私たちを愛した 永遠の命(この世の時空の限界を超えて生きる 神の世界をも理解できる能力) 命 ギリシャ語 命は生活を生み出すもの いただく命の能力の範囲でしか生きられない 洗礼は神ご自身の命を私たちに植え付けるためのものである 

    ある神父:洗礼は受けたけど教会に行ったことはなかった でも戦争が終わりソビエトであらゆる体験をして生き抜いて浮浪者となって生活したときある本にで出会う 洗礼はキリストの命をいただいてキリストと同じ感性で生きることときづき教会に戻り、神父になった。

    洗礼によってあなたはキリストの命をいただいたのですよ。命にも色々なレベルがある。植物の命、動物の命、与えられたレベルでしか生きることができない チンパンジーとすべてを分かち合って一緒に生きて、本当に大事にしていたがやはりチンパンジーは人間のようにはできない。それで人間が自分の命を分け与えて自分の持っている命の能力を移植したとしたら今までバナナを食べるとかしかできなかったチンパンジーが悲しいとか嬉しいとか感じる能力を持つようになるでしょう。神もこの世に生まれたとき人間に神ご自身の命の能力を与えられた 

    その話を聞いたとき、自分の持つ命の能力だけでは理解できない世界を理解するためにはイエスの命を分けてもらわないと理解することはできないと思った。

    人間の命の特徴 十字架のヨハネの教説(なかなか理解されなかったが20世紀になってやっと教会の教えの神髄を説いていると気が付いて教会博士の称号を授けられた人)

    人間の命の特徴:親からいただいた 「知性」 「記憶」 「意思(決断)」

    神からいただいた永遠の命の能力は人間の命とすべてかかわっています。「信仰」 「希望」 「愛」 神からいただいた能力を持ってイエスと一緒に物事を考え決断する イエスの持つ記憶は単にこの世で起こったことだけではなく神の中にある記憶もいただいている 人間の記憶は死んだらおしまいというもの しかし神の記憶は未来の記憶 神の世界の中で全部実現していく記憶 それを先取りしてそれに基づいて生きることが希望を表す徳 洗礼によっていいただいた神からの能力をもって 神様を相手にしてもイエスと一緒に考え生きる

    典礼聖歌キリストのように考え キリストのように話し キリストのように行い キリストのように愛そう♫ 高田先生 洗礼は私たちを中から変え続けてくれる

    教会の成熟 巡礼というと 昔は やせ細った修道者 苦行 捨てる 無 と思われていたが希望の巡礼者とはこれほどまでに豊かな神の招きにあずかっているのだからそれ以外のものに執着するのはやめなさい、この世のものだけに執着する生き方はやめなさいと言っている 

    代々教皇さまや聖人たちが私たちを導いて前を見ている 教会は確かな情報源を持つ世界(世界中に散らばる情報が隅々から集められる バチカンがものをいうときノーベル賞級の確かな科学者によるアカデミーの持つ確かな情報から今の時代を分析し教皇様が発信する

    ベネディクト16世は半世紀を振り返り、教会の歴史も見直し、どのように推移してきたか分析した 2006年カルメル会は21世紀をどう生きるか本気で模索し始めた。「カルメル会は日本で必要でしょうか?」を相談。ニコラス神父(イエズス会・教皇様の相談相手でもあった)講演 近世からの500年はどういう理念で導かれてきたか分析 ヨーロッパ フランシスコベーコン 人類は科学を発達させれば救われると進歩させ、外側の様々なものを改革してきた。そこから見ると科学や技術が人類の問題を解決し歩み続きて来た。やがて信仰とか希望とかが人々のない面だけのことに押し込められてきた。科学が人間の内面に向かってくるようになった。内面から幸せになるためにはどうしたらよいか。私たちの心が本当に満たされて幸せに生きることができるのかその問いの前に立っている 人間の内面の底の底まで掘りつくして、その奥に生きる神との出会いの場がある 無条件 無償の神がおられることを確かめたテレジア そのような出会い方を見直すことが今こそ必要

    神ご自身との出会いの必要 時の印

    「今日の人々は今日の信仰者私たちについてキリストについて語ってほしいだけではなくキリストに出会いたいと思っています。」・・・あなたが出会っている、わたしは出会っていないもの あなたが見ているものを私も出会いたい。中川神父にとってのドイツ人宣教者との出会いと同じ体験

    教皇様 私たちがまずキリストの顔を観想しなければ私たちの証は耐え難いほど貧弱になるでしょう。知識ではない。問題は私たちがキリストに出会い、どうキリストと生きるか、生きたキリストの光を輝かせるか

    即効型の解決法があるわけではない

    多方面で世俗化が進む中 世の中に 霊性の要求が見られる これが時の印

    霊性 私を支え生かしているものの存在

    キリスト信者の義務は、規則ではない。心の深いところで神と出会うことができることを示すこと。世の中の人があなたはどうやって神様と接触しているのですかと尋ねられた時、こうやっているんだよと伝えられるか。

    スティーブンピンカー「暴力の人類史」 世界は確実に安全になってきている 

    社会は決して暗黒に向かっているわけではない 

    教皇様も不毛な悲観主義に注意するように呼び掛けている 

    時の印は霊性 神ともう一度出会いなさい

    アビノの聖テレジア 自分の心の最も深みに神がいることを実感 私の中に無償で私を愛し私を生かし与え続ける神がいる。ミサのたびにパンをいただく私たちも体験している。

    先に愛したのは主です。回心したら愛してくれる神ではなく、何かをしたからあいしてくれるのではない 何もできなくても何もしなくてもそんな私のために命を懸けて愛してくれたことに気づく

    全く神を排除したら、全く神を受け入れなかったら・・・霊魂は自らを粉砕、焼かれ、自分自分を切り刻み、自分で自分に絶望する体験。どんな人にもこのような体験をさせたくないという思いから霊に特化した修道会をつくる

    キルケゴール「死に至る病」 人間の存在は霊的 神が息吹を吹き込んでくれる この息吹を止めることが死である

    テレーズの生き方、アビロの聖テレジアの共通点 使命をいただいたとき 神不在の体験をする そこから、神に心を向ければ全く新しい道に 信頼の道に歩み始める

    <結び>

    四旬節 はじまり 灰の水曜日 あなたはチリにかえっていくと説かれた

    誰もがいつでも頻繁にいつでも耳に入れておくべき三大真理

    • 神はあなたを愛しておられる すでに知っている、きかされていてもかまいません。神はあなたが大好きです。このことを忘れないでほしい。
    • 神はあなたにご自分のすべてを与えつくしています。パンになって食べられても
    • この方は昔いた素晴らしい人ではなく、今もあなたとともに生きておられます。

    このことを受け入れていく回心を通して希望の巡礼者になる

    キリストと一緒に生きる人がこの時代を開いていく